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鳩ぽっぽ

Pigeon_Songs  Pigeon_Songs  Pigeon_Songs

』 (文部省唱歌) <歌詞URL:12

1.ぽつぽつぽ 鳩ぽつぽ/豆がほしいか そらやるぞ/みんなで仲善く食べに來い
2.ぽつぽつぽ 鳩ぽつぽ/豆はうまいか 食べたなら/一度にそろつて飛んで行け

鳩ぽっぽ』 (作詞・東くめ/作曲・瀧廉太郎) <歌詞URL:12

鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ
ポッポポッポと 飛んで来い/お寺の屋根から 下りて来い
豆をやるから みな食べよ/食べても直(すぐ)に 帰らずに
ポッポポッポと 鳴いて遊べ

♪ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ/豆がほしいか そらやるぞ…♪
長い間、この平易な曲を「瀧廉太郎作曲」と思い込んでいた私。ところが、この文部省唱歌は全く別の作品で『』という曲名であり、廉太郎の『鳩ぽっぽ』のメロディーは初めて聴きました。

文部省唱歌『』は、1911年(明治44年)5月発行の国定音楽教科書『尋常小学唱歌・第一学年用』第2曲に置かれました。尋常小学校に入学したばかりの児童は、最初に第1曲『日の丸の旗』を教わり、すぐ次の教材として ♪ぽっぽっぽ 鳩ぽっぽ…♪ を覚えたことになります。
「第一学年用」の教材からは、第6曲『かたつむり』第9曲『桃太郎』第15曲『月』などが、100年を超えた現在でも広く歌われています。(d-score

20世紀最初の黄金コンビ「作詞・東くめ/作曲・瀧廉太郎」による『鳩ぽっぽ』は、文部省唱歌『』よりもはるかに早く、10年前の1901年(明治34年)7月に「幼稚園唱歌」第12曲として発表された作品です。全20曲からなる唱歌集の中には、あの有名な『お正月』が入っています。(『お正月過去記事

<「幼稚園唱歌」全20曲・曲名一覧>
1.ほーほけきょ/2.ひばりはうたひ/3.猫の子/4.鯉幟/5.海のうへ
6.桃太郎/7.白よこいこい/8.お池の蛙/9.夕立/10.かちかち山
11.水あそび/12.鳩ぽっぽ/13.菊/14.雁(がん)/15.軍ごっこ
16.雀/17.風車/18.雪やこんこん/19.お正月/20.さよなら

広く知られた旋律とは違う「同名異曲」もあるので、とくに間違えやすい3曲をここに列挙しておきます。
* 第6『桃太郎』(作詞・作曲/瀧廉太郎)…おなじみの旋律は「尋常小学唱歌」第一学年用・第9曲。
* 第12『鳩ぽっぽ』(作詞・東くめ/作曲・瀧廉太郎)…おなじみの旋律は「尋常小学唱歌」第一学年用・第2曲『』。本記事の題材。
* 第18『雪やこんこん』(作詞・東くめ/作曲・瀧廉太郎)…おなじみの旋律は「尋常小学唱歌」第二学年用・第17曲『』。

1887年(明治20年)12月に文部省音楽取調掛が出版した「幼稚園唱歌集」(全29曲)は、歌詞が文語体であるため、子供たちの日常的な言葉遣いとは大きく違っていました。その点を憂慮していた教育者の東基吉(1872年-1958年)が、結婚したばかりの妻・くめに「子供にも分かりやすい、楽しく歌える曲を作れないか」と相談を持ちかけました。くめは東京音楽学校の2年後輩である「作曲の巧い学生」瀧廉太郎を夫に紹介し、こうして唱歌集作りの計画が始まります。いちばん最初にできあがった曲は『鳩ぽっぽ』でした。
こうして刊行された「幼稚園唱歌」全20曲は、幼児向けの教材としては初めての、伴奏譜付きの唱歌集として高く評価されました。(斎藤基彦:明治の唱歌/池田小百合:なっとく童謡・唱歌

動画サイトでは『鳩ぽっぽ』の歌が皆無に近いため、記事冒頭の「歌詞URL」でmidi音が鳴るものを2つ入れておきました。(うたごえサークルおけら提供の「2」は伴奏つきで聴けます。)

』 (文部省唱歌/尋常小学唱歌・第一学年用)


鳩ぽっぽ』 (作詞・東くめ/作曲・瀧廉太郎

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ぶたが逃げた

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ぶたが逃げた』 (作詞・宮澤章二/作曲・小田啓義) <歌詞URL

<作者プロフィール>
作詞者:宮澤章二(みやざわ・しょうじ)…1919年6月11日-2005年3月11日。埼玉県羽生市弥勒出身の詩人・作詞家。『ジングルベル』の訳詞や、詩集「行為の意味-青春前期のきみたちに」などでも知られる。(羽生市立三田ヶ谷小学校記念館案内
作曲者:小田啓義(おだ・ひろよし)…1939年12月23日生まれ。バンド「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のキーボード奏者。日本音楽著作権協会(JASRAC)会員などを務める。

♪ある晴れた昼下がり 市場へ続く道/荷馬車がゴトゴト 子牛を乗せて行く…♪
有名な『ドナドナ』(日本語詞・安井かずみ)の悲しい歌詞は、かわいい盛りの子牛が市場へ売られてゆく様子を歌ったものです。実はブタにも、こんな情景を描いた歌がありました。
ぶたが逃げた』の歌詞では、親ぶたが町へ売られてゆき、残された小さい子ぶたが後を追おうとして逃げるのですが、どうしても追いつけず、迷った道で泣き疲れて眠ります。

ぶたが逃げた』はNHK「みんなのうた」の初期、1968年10月-11月に放映された楽曲で、当時人気絶頂を極めていたグループサウンズ(GS)界の超大物バンド「ブルー・コメッツ」(ブルコメ)の初登場作として大きな話題を呼びました。歌を聴いた人たちには、悲しい情景が強烈な記憶を残したのですが、どういうわけか『ぶたが逃げた』のブルー・コメッツによるオリジナル録音は残されていないようです。バンドのキーボード奏者であった小田啓義さんが、この歌詞に曲をつけました。
音楽の世界でよく見られる「どうして??」人と人との不思議な繋がり-『ぶたが逃げた』の作者2人はどんな出会いがあったのでしょう。埼玉県大宮市(現・さいたま市)で学校教員を務めた「風と光の詩人宮澤章二氏と「ブルコメ」のメンバーが、こんな不思議な接点を持ったなんて。
きょうの記事は、悲しい詩を書いた宮澤章二氏の「没後10周年」の節目の日に、彼のライフワークであった詩集「行為の意味-青春前期のきみたちに」とも繋げてみたいと考えました。

大宮市で学校教員を務めながら、詩作活動に携わった宮澤章二氏は、その作風から「風と光の詩人」と呼ばれました。教育委員長の立場から、生徒たちを対象にして書き続けた詩を1冊の本にまとめた遺作出版が「行為の意味-青春前期のきみたちに」です(2010年7月・ごま書房新社刊)。
最も広く知られる詩「行為の意味」については、宮澤章二記念館(2013年1月開館)の公式ページからリンクすることにします。(全文
そう考えてみれば、1968年に作詞した『ぶたが逃げた』の終わり方も「風と光の詩人」らしさが出ているかもしれません。ひとりぼっちの哀れな子ぶたに、こんなふうに呼びかけて結びます。
♪あしたは 元気を 出すんだよ/ だれかが ひろって くれるだろ…♪

宮澤章二氏が2005年3月11日に亡くなってから、ちょうど6年後-まさしく6度目の命日、2011年3月11日に未曾有の東日本大震災が起きました。震災発生直後は、多くの企業がテレビコマーシャルの放映を自粛する中、公益社団法人「ACジャパン」のCM(2010年制作)で宮澤章二氏の詩「行為の意味」の抜粋が流れました。
没後10周年を迎えた今年、故郷の地のさいたま文学館で、企画展「風と光の詩人宮澤章二」が開催されることになりました。期間は1月10日-3月15日です(今週末で終了します)。

ぶたが逃げた』 (歌・熊倉一雄/世界文化社「ドレミファブック」のレコード録音)
ブルー・コメッツによる「みんなのうた」歌唱版の録音は残っていない]


(ACジャパンのTVCM:宮澤章二行為の意味」から引用している)

ありのままの自分で ~メーガン・トレイナー~

All_About_That_Bass_1   All_About_That_Bass_2

昨年を代表する大ヒット曲として、世界中に響き渡ったメッセージ-人はみな「ありのままの自分でいいの」というアピール。こちらは、あのディズニー映画『アナと雪の女王』主題歌の話ではありません。
きょうの題材は《All About That Bass》(オール・アバウト・ザット・ベース)という歌で、アメリカの女性シンガー・ソングライターであるメーガン・トレイナーさんが、デビュー作でいきなり全米の頂点に立った曲です。その題名の意味は「私は重たい身体なのよ」。自らも“ぽっちゃり”の体型をした若い女性が、同じ悩みを抱える無数の人たちを元気づけるために作った歌は、2014年の全米チャートで「8週連続」1位の座に輝き、ファレル・ウィリアムスさんが歌った《Happy》(ハッピー)の「10週連続」に続く大記録を打ち立てました。(ファレル・ウィリアムスHappy過去記事あり)

“bass”(ベース)とは「重低音」のことで、対義語は“treble”(トレブル:高音)です。ステレオ装置で音量・音質の操作が可能な物は、重低音(bass)と高音(treble)の調節つまみがあります。ステレオアンプの調節つまみと語呂合わせをして「私は重低音のようだけどね~」と自己表現しているわけです。大きなお尻にはものすごい魅力があるんだよ。(→女性の幸せは、体型で決まるものではない-。)
この歌詞と公式動画が、世界中で熱烈な大反響を呼び、日本の音楽メディアはメーガン・トレイナーさんを「ぽちゃカワ歌姫」と呼ぶようになりました。(ぽっちゃり+カワイイ)
私がこの曲に興味をそそられたのは、自分も「中年太り」に悩み始めているから。今まで履いてきたスカートが入らなくなってきて、ウエスト総ゴムタイプを買い足す必要に迫られています。

メーガン・トレイナーさんは1993年12月22日、マサチューセッツ州ナンタケット生まれ。ソロ歌手としては《All About That Bass》が「デビュー曲」とはいえ、すでに豊富な音楽経歴を積んでいて、高校生時代から著名なアーティストへの楽曲提供を行っていたそうです。
このたび、メーガンのデビューアルバム『TITLE』(タイトル)の日本盤発売と、待望の初来日公演の計画が決定しました。楽曲解説と歌詞対訳つきの日本盤CDは、3月4日にソニー・ミュージックからリリースされ、来日公演「Meghan Trainor THAT BASS TOUR」(ザット・ベース・ツアー)は4月18日から始まります。(公演情報

«All About That Bass» by Meghan Trainor <歌詞URL日本語訳例

みちのくひとり旅

みちのくひとり旅』 (歌・山本譲二/作詞・市場馨/作曲・三島大輔) <歌詞URL:12

山本譲二さんの代表曲『みちのくひとり旅』をはじめ、演歌の作曲家として知られた三島大輔(みしま・だいすけ)氏が、2月22日に腎臓癌のため73歳で亡くなられました。
みちのくひとり旅』は私が小学校高学年の時に大ヒットした曲ですが、この人は他にどんな作品を書き残したのだろうか。彼の所属事務所の公式ホームページから、いくらか確認できました。

♪たとえどんなに つめたく別れても…♪
私が小学生の時に覚えたのは、歌詞のこの部分ぐらい。1番・2番の歌が終わった後、全く新しいメロディーで ♪たとえどんなに…♪ のクライマックスへ持って行きます。
大変残念なことに、当時の私は『みちのくひとり旅』が好きになれなくて、小学生の柔らかい頭で歌詞を暗記し損なってしまいました。今から覚えようとしたら、固くなった頭では手間がかかりそうだな…。

みちのくひとり旅』のシングル盤発売日は、1980年(昭和55年)8月5日でした。この曲がロングセラーになったことで、山本譲二さんは1981年に多数の音楽賞を受賞し、大晦日のNHK紅白歌合戦にも初出場を果たしました。同時期の大ヒット演歌には、竜鉄也さんの『奥飛騨慕情』もありました。
「みちのく」(陸奥)は東北地方をさす、広範囲な呼称。東北新幹線の開業日は1982年(昭和57年)6月23日であり、最初は[大宮⇔盛岡]間の運行から始まりました。ちょうど『みちのくひとり旅』の大ヒット直後から「やまびこ」号と「あおば」号が走り出したことになります。
28年間の歳月を経て、ようやく2010年(平成22年)12月4日に東北新幹線の全線開業[東京⇔青森]が実現しましたが、わずか3か月後の2011年3月11日東日本大震災が起きました。あれからもうすぐ4年…みちのくの地の復興は、何と険しい道のりだろう…。

だれかが風の中で

Kogarashi_Monjiro  Kogarashi_Monjiro  Kogarashi_Monjiro

だれかが風の中で』 (歌・上條恒彦/作詞・和田夏十/作曲・小室等) <歌詞URL

まだまだ厳しい寒さが続き、木枯らしも吹く2月。今月最初の記事は、テレビドラマ「木枯し紋次郎」の主題歌『だれかが風の中で』(1972年)を聴いてみましょう。

♪ど~こかで~ だ~れかが~♪
上條恒彦さんならではの骨太な歌声が、テレビを通して響き渡った名作。『だれかが風の中で』の歌詞を手がけた「和田夏十」(わだ・なっと)とは、シリーズの制作指揮を執った市川崑監督の妻・由美子さんのペンネームです。彼女は夫の作品を中心に、優れた脚本家として活動しましたが、1983年2月18日に62歳で亡くなりました。
小室等さんと上條恒彦さんは長年の音楽仲間であり、「上條恒彦六文銭」の出世作『出発の歌~失われた時を求めて~』(たびだちのうた)も、小室さんが曲を書きました。(『出発の歌過去記事あり)
マカロニ・ウエスタン風の斬新な編曲を施したのは、あの寺島尚彦氏で、作曲者・小室等さんからの依頼で実現したそうです。

多数の時代小説・推理小説を残した笹沢左保氏(ささざわ・さほ、1930年11月15日-2002年10月21日)最大のヒットシリーズ「木枯し紋次郎」。時代小説をほとんど読まない私が『だれかが風の中で』の歌に出会えたのは、フォークソングマニアなのと、上條恒彦さん&小室等さんとの繋がりで『出発の歌』が気に入ったからでした。

紋次郎役を演じた主演俳優・中村敦夫さんについては、最近新たな情報が入り、2015年上半期のNHK連続テレビ小説(朝ドラ)「まれ」への出演が決定しています。(NHKオンライン

菩提樹

Schubert_Winterreise  Schubert_Lindenbaum

菩提樹』 (作曲:Franz Schubert/日本語訳詞:近藤朔風
(原作詩:Wilhelm Müller) <歌詞URL:日本語訳原詩・対訳

「歌曲王」と呼ばれるフランツ・シューベルト(1797年1月31日-1828年11月19日)は、31歳9か月という短い生涯の間に、1000曲にものぼる作品を書き残しました。その中でも『美しき水車小屋の娘』(1823年)『冬の旅』(1827年)『白鳥の歌』(1828年)は「三大歌曲集」として広く知られています。
本ブログの過去記事では、開設した年の2010年11月19日付で『美しき水車小屋の娘』の最終曲である『小川の子守歌』《Des Baches Wiegenlied》を聴きながら、作曲家の命日を考えたことがありますが、シューベルトの歌曲に関する記事はそれっきりでした。(2010/11/19

シューベルトが死の前年に、彼の全精力を傾けた全24曲の連作歌曲集『冬の旅』は、4年前の1823年に書いた『美しき水車小屋の娘』と同じく、ヴィルヘルム・ミュラー(1794年10月7日-1827年10月1日)の詩に曲をつけたものです。第5曲『菩提樹』《Der Lindenbaum》は作曲直後から広く知られ、日本でも近藤朔風(こんどう・さくふう、1880年2月14日-1915年1月14日)の訳詞で歌われてきました。
♪泉に添いて 茂る菩提樹…♪
冬の旅』の主人公は、失恋の痛手に苦しみ、村を離れて放浪の旅に出ますが、どこにも安らぎを見いだすことができません。途中で1本の菩提樹を見つけ、木の幹に愛の言葉を彫りますが、枝が風にそよぎながら「あなたの安らぎはここに」と呼びかける音にも、耳を背けて去って行きます。

冬の旅』 ヴィルヘルム・ミュラーの詩による連作歌曲集 <全訳
«Winterreise» Liederzyklus nach Gedichten von Wilhelm Müller
1.Gute Nacht (おやすみ)
2.Die Wetterfahne (風見)
3.Gefrorne Tränen (凍った涙)
4.Erstarrung (氷結)
5.Der Lindenbaum菩提樹
6.Wasserflut (溢れる涙)
7.Auf dem Flusse (川の上で)
8.Rückblick (回想)
9.Irrlicht (鬼火)
10.Rast (休息)
11.Frühlingstraum (春の夢)
12.Einsamkeit (孤独)
13.Die Post (郵便馬車)
14.Der greise Kopf (霜おく頭)
15.Die Krähe (からす)
16.Letzte Hoffnung (最後の希望)
17.Im Dorfe (村にて)
18.Der stürmische Morgen (嵐の朝)
19.Täuschung (幻)
20.Der Wegweiser (道しるべ)
21.Das Wirtshaus (宿)
22.Mut (勇気)
23.Die Nebensonnen (幻の太陽)
24.Der Leiermann (辻音楽師)

明治後期から大正初期にかけて活動した訳詞家・近藤朔風も、作曲家シューベルトと同じく、あまりにも薄命だった天才芸術家のひとりでした。朔風が1915年(大正4年)1月14日に「34歳11か月」という若さで急逝してから、ちょうど100年目を迎えた命日に『ローレライ』(ハイネ作詞/ジルヒャー作曲)をブログで調べたばかりです。(2015/01/14
富山大学教育学部紀要近藤朔風とその訳詞曲再考」研究論文によれば、彼が35年足らずの短い生涯中に手がけた訳詞は、ドイツ歌曲が圧倒的に多い中で、バンジャマン・ゴダール(1849年8月18日-1895年1月10日)作曲『ジョスランの子守歌』のようなフランス歌曲もあり、ショパンの歌曲『乙女の願い』まで残っているそうです(15-18ページ)。

シューベルト作曲『菩提樹』の訳詞は、1909年(明治42年)11月発行の唱歌集「女聲唱歌」(全25曲収載/天谷秀・近藤逸五郎編/水野書店)に収められました。全25曲中14曲の訳詞を近藤朔風(文名)が自ら書き、『ローレライ』やヴェルナー作曲『野ばら』もこの歌集に取り上げられました。(「女聲唱歌」曲名一覧:うたごえサークルおけら
朔風はどのようにして、訳したい楽曲を選んでいたのだろう。シューベルトの歌曲集《Winterreise》からは第5曲《Der Lindenbaum》を選んで『菩提樹』の訳語を当て、木の枝が歌曲集の主人公に呼びかける言葉に「ここに幸あり」を当てるとは。名訳詞家の手によって、シューベルトを代表する名作歌曲が、日本人の心にも届くしかたで伝えられたのです。

(日本語訳詞歌唱。ソプラノ歌手・鮫島有美子さんによる)

(《Winterreise》ドイツ語歌唱。バリトン独唱:ヘルマン・プライによる)

シャボン玉

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シャボン玉』 (作詞・野口雨情/作曲・中山晋平) <歌詞URL:123

シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ/屋根まで飛んで こはれて消えた
シャボン玉消えた 飛ばずに消えた/生まれてすぐに こはれて消えた
風 風 吹くな シャボン玉飛ばそ

日本の「童謡」文化を築き上げた不世出の大詩人・野口雨情が、太平洋戦争の終戦直前に62年の生涯を終えてから、ちょうど70年の歳月が過ぎました(1882年5月29日-1945年1月27日)。
今年は「戦後70年」の話題がたくさんありますが、日本の音楽界でも、詩人・野口雨情と作曲家・本居長世が同じ1945年に世を去っています。雨情の詩に音楽をつけた作曲家では、中山晋平本居長世のふたりが多くの傑作を残しました。
きょうの題材は『シャボン玉』(作曲・中山晋平)で、1922年(大正11年)11月に雑誌『金の塔』(発行・大日本仏教子ども会)に寄稿したものです。
(間違えやすい点:野口雨情が編集長を務めた雑誌『金の船』ではありません。)

シャボン玉で遊ぶのは、幼き日の私も好きでしたが「屋根まで飛ぶ」ところまではいかず、何度やっても形にならなくて「飛ばずに消える」感じでした。屋根まで飛んで行くほどのシャボン玉を作れる人は、きっと肺活量が大きいんだろうな。
野口雨情の時代にも、子供たちが普通にシャボン玉遊びをしていたので、当時のシャボン(石鹸)は一般的な家庭用品であったことが分かります(この点の詳細は後述)。
この詩の中で『シャボン玉』は何を意味するのだろう。2番の歌詞 ♪生まれてすぐに~♪ と詩人の家庭生活を重ね合わせて、これは「幼くして失った愛娘への鎮魂歌だ」という見解が広まりましたが、果たして本当にそうなのでしょうか。

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野口雨情の生涯:家庭生活と子供たちについて>
野口雨情は生涯に2度の結婚歴があり、総計12人の子供をもうけました。最初の妻・高塩ヒロ(結婚期間:1904年-15年)との間には3人の子供(1男2女)がいましたが、1908年3月に長女・みどりを生後8日で亡くしたことがあります。
1918年に再婚した中里つるとの間には、総計9人(2男7女)の子供が生まれました。この結婚では四女・恒子を早く亡くしましたが(1921年11月17日-1924年9月23日/2歳10か月)『シャボン玉』の詩の発表は1922年11月ですから、この子の死とは関係ありません。(野口雨情詳細年譜
雨情の家庭に限らず、当時の日本は「幼児死亡率」がまだ高い時代でした。親はどの子供にも変わらぬ愛情を注ぎ「ずっと長生きしてほしい」と願うものです。
いずれにしても、シャボン玉ははかなく消えやすいもの。雨情自身はこの詩について、何も述べていないので「~の見方もできる」聴き手はいろいろな情景を思い浮かべることができます。

シャボン(石鹸)の歴史:日本への伝来と普及について>
シャボン」(sabão)はポルトガル語の単語で、戦国時代後期、16世紀にポルトガル船との「南蛮貿易」を通して紹介されたそうです。昔の石鹸は貴重品でしたが、明治時代になってから、日本にも国産石鹸の工場が建ち始め、一般家庭でも石鹸を使えるようになりました。(ああ我が心の童謡
あの有名な商品名「ママレモン」のような、液状の家庭用食器洗剤が普及すると、水で薄めるだけでシャボン玉遊びの液も作れるようになり、さらに手軽になったでしょう。

野口雨情は1926年(大正15年)6月に出版した童謡集「螢の燈台」の序文で、童謡とは「童心から生発する言葉の音楽であり、自然詩である」と述べました。詩人が20年ほど住んでいた北多摩郡武蔵野村(現・東京都武蔵野市)吉祥寺の自宅には、彼自身が「童心居」と命名した書斎があり、その部屋で詩作活動に没頭していました。(「螢の燈台青空文庫
1943年2月から病床についた野口雨情は、彼がこよなく愛した「童心居」の書斎を離れ、戦火を避けて栃木県河内郡姿川村鶴田(現・宇都宮市鶴田町)に移りました。彼は太平洋戦争の終結を見ることができず、1945年(昭和20年)1月27日に疎開先の鶴田の家で亡くなりました。

田舎の冬

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田舎の冬』 (作詞・不詳/作曲・島崎赤太郎) <歌詞URL:12

1.ましろに おく霜 峰の雪/しずかに さめくる 村の朝
ほういほい ほういほい むら雀/かり田のかかしに ひの光
2.ひなたにつづるは 古ごろも/軒(のき)には垂氷(たるひ)の とくる音
ほういほい ほういほい 寒烏(かんがらす)/門辺(かどべ)の枝には 柿二つ
3.いろりに榾(ほだ)たく 夕けむり/枯野に風立ち 日のくるる
ほういほい ほういほい 渡り鳥/鎮守(ちんじゅ)の林に 宿かさん

はるか昔に学校音楽教科書から消滅して、今はもう接する機会もなくなったのに、ずっと前に聴いた覚えがある「あの歌」が忘れられなくて、遠い記憶をたぐり寄せ、五線楽譜や録音音源を探し回る-。若い読者の方には分からない感覚かもしれませんが、ブログ・SNSなどで年配の方のお話を伺うと、時折そんな歌との出会いもあって「温故知新」の醍醐味を感じます。
私にとって『田舎の冬』は、年配のブログ仲間を通して出会った、貴重な歌になりました。なにしろ詩の言葉遣いが古風だから、教科書から早く消滅した(→学校で習わなかった)のは仕方ないことですが、陰うつで物憂げな雰囲気に満ちたニ短調(フラット1つ、D-minor)のメロディー、1度聴いたらずっと忘れられない。私自身が田舎在住(それに寒がり)なので、都会の方よりも『田舎の冬』に親しみがわくのかもしれません。
ごく最近になって『田舎の冬』の録音音源が動画サイトにアップされ、歌を知らない方でも手軽に聴けるようになりました。

この歌詞には難解な表現が多く含まれているので、文語の言葉を拾い出しながら、大雑把な意味を考えてみたいと思います。
最大の特徴は ♪ほういほい ほういほい~♪ 鳥たちへのかけ声でしょう。1番は「群雀」(むら雀)スズメの群れに、2番は「寒烏」(かんがらす)冬のカラスに、3番は「渡り鳥」に呼びかけます。

1番(朝の情景):真白な霜と峰の雪をいただき、村の朝が静かに明けてゆく。ほういほい、雀の群れよ、稲刈りを終えた後の田んぼに残された案山子(かかし)にも、日の光が当たっている。
2番(昼の情景):日なたでは古い服を縫い合わせ、軒先ではつららの溶ける音がする。ほういほい、冬がらすよ、門のそばの枝に柿が二つなっている。
3番(夕暮れの情景):いろりで薪を焚くと夕けむりが立ち、枯れ野には風が吹いて日が暮れる。ほういほい、渡り鳥よ、鎮守の神様がいる林に宿をかりられるか。[「宿かさん」がしっくりこなかった]
* 刈田の案山子(1番)…稲刈りが近づくと、寄ってくるカラスを追い払うため、案山子(かかし)を田んぼに立てる習慣がある。稲刈りを終えた後も、田に残された案山子のこと。
* 垂氷[たるひ](2番)…つらら。凍った水滴が、垂れ下がった氷の形になる。
* 榾[ほだ](3番)…たきぎ。いろり(囲炉裏)やかまどなどで、火をたく時に用いる。
* 鎮守(3番)…鎮守神[ちんじゅがみ]地域や建物などを守護する神。

田舎の冬』の初出は、1932年(昭和7年)5月に発刊された音楽教科書「尋常小学唱歌・第五学年」用の教材でした。この教科書の出版元は「音楽教育書出版協会」であり、文部省の国定教科書に大改訂を施した「新訂尋常小学唱歌」(刊行年:1932年-33年)とは全く異なっています。
(参考資料:うたごえサークルおけら・唱歌関連年表新尋常小学唱歌
作曲者の島崎赤太郎(しまざき・あかたろう、1874年7月9日-1933年4月13日)は、日本におけるオルガン演奏の先駆者として活動した人です。彼は東京音楽学校(現・東京藝術大学)で教鞭を執るかたわら、1902年-1906年にかけてドイツのライプツィヒ王立音楽院に留学し、現地で不治の病に倒れた瀧廉太郎を支援し続けたことでも知られています。
尋常小学唱歌」の編纂委員として『田舎の冬』を作曲した後、島崎赤太郎は1933年4月13日に58歳で亡くなりました。彼の墓は東京都台東区の「谷中霊園」にあり、「島崎赤太郎先生之墓」の手前に「昭和八年四月十三日永眠」と記載された石碑があります。(霊園写真

赤いサラファン

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赤いサラファン』 (日本語詞:津川主一) <歌詞URL:1234
«Красный Сарафан» (Nikolay Tsiganov / Aleksandr E. Varlamov)

今年も「成人の日」が終わり、20歳の「新成人」たちが社会に巣立って行きました。元気はつらつとした若者たちの姿を見守りながら、大人たちは自分の若かりし日を振り返り「若い時はいつまでも続かず、瞬く間に終わるものだよ」と言い聞かせる…。
有名なロシア歌曲『赤いサラファン』は、若い娘と年老いた母親の会話の歌です。19世紀前半の帝政ロシアで生まれた歌曲は、日本にもかなり早く伝えられて、何人かの訳詞家が翻訳を手がけました。記事冒頭に載せた「歌詞URL:12」では、この歌い出しの訳詞をリンクしてあります。
赤いサラファン縫うてみても 楽しいあの日は帰りゃせぬ…♪

「サラファン」とはロシアの女性用民族衣装の一種で、ブラウスの上に羽織るジャンパースカートのような形状をしています。スタイルも色も多種多様にありますが、赤いサラファンは婚礼衣装として用いられました。
ロシア歌曲《Красный Сарафан》の原詩は、全部で10連構成になっています。前半の第1連-第5連は娘が結婚の話に反発して「私に赤いサラファンを縫わないでね、もう少し自由を楽しみたいの」と言います。後半の第6連-第10連は母親が、結婚を嫌がる娘に「若い時の楽しさは、じきに終わるものだよ。私にも若い娘時代があったのだよ」と語りかけます。(原語で歌う海外曲
津川主一氏の訳詞は、後半の母親のせりふに絞って作られています。年配の女性の話し言葉を用いることで「おばあちゃんからのメッセージ」が、日本の聴き手の心にも届くような名訳です。

<『赤いサラファン』作者・訳者プロフィール>
作詞者:ニコライ・ツィガーノフ(Nikolay Tsiganov)…1797年(?)-1831年(?)。サンクトペテルブルク生まれの俳優・詩人。彼の没後、雑誌に掲載された詩が『赤いサラファン』の歌になった。
作曲者:アレクサンドル・ヴァルラーモフ(Aleksandr Egorovich Varlamov)…1801年11月27日-1848年10月27日。モスクワ生まれの作曲家。歌曲作曲のみならず、歌唱法の本の著述やロシア・ウクライナの民謡編曲にも取り組んだ。(英文資料例:12
訳詞者:津川主一(つがわ・しゅいち)…1896年11月16日-1971年5月3日。愛知県名古屋市出身の教会音楽家・合唱指揮者・訳詞家。訳詞分野では、教会賛美歌の翻訳やスティーブン・フォスターの歌曲研究などで広く知られる。
この曲は「ロシア民謡」と書かれることが多いのですが、作者名が分かっているので、より厳密に分類すれば「民謡」ではなく「歌曲」になります。歌の成立年代は、ツィガーノフの没後間もない、1833年-1834年頃と考えられています。

私が初めてこの歌を知ったのは、まだ10歳ぐらいの時で、クラシック音楽入門者向けのLPレコードセットを通して覚えました。その当時はまだ育ち盛りの子供で「若い時もいつかは終わる」と考えたくない年頃でしたが、あれから何十年の時が流れ去り、心身が否応なしに衰え始めた今は ♪楽しいあの日は帰りゃせぬ…♪ と語りかける母親のせりふが、自分の実感になっています。

心の窓に灯を

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心の窓に灯を』 (作詞・横井弘/作曲・中田喜直) <歌詞URL:12

冬の寒さがますます厳しくなり、毎晩の木枯らしの音が心と体にしみる季節。こんな夜を過ごす人たちの心を暖めてきた名曲として、あの有名な双子姉妹デュオ「ザ・ピーナッツ」の初期のヒット曲『心の窓にともし灯を』(心の窓に灯を)を聴いてみましょう。

双子姉妹の伊藤エミさん(本名・~日出代)と伊藤ユミさん(本名・~月子)は、1941年4月1日に愛知県知多郡常滑町(現・常滑市内)で誕生し、名古屋市内で少女時代を過ごした後、1959年2月11日に『可愛い花』で芸能界デビューを果たします。国民的な人気者になった「ザ・ピーナッツ」のデュオは、妹ユミさんが楽曲のメロディーを歌い、姉エミさんがハーモニーの旋律を受け持つ歌唱スタイルで広く親しまれ、1975年4月5日に引退公演を終えるまで、長い間日本音楽界の顔として君臨し続けました。
心の窓にともし灯を』は、2人がデビューした年の暮れ、1959年12月に「NHK歳末たすけあい運動」の一環として作られた曲です。1959年9月26日に日本全国を襲った伊勢湾台風は、死者・行方不明者数が5千人を超えるなど、史上最悪の暴風雨災害となりました。復興活動が難航する中、当時18歳の新人歌手であったザ・ピーナッツが、台風の被害を最も大きく受けた地元の人たちに思いを寄せながら『心の窓にともし灯を』を歌い上げたのです。(日本経済新聞・窓クラブ

ザ・ピーナッツの引退後、姉の伊藤エミさんは沢田研二さんとの結婚生活に入り、当時の大物ビッグ・カップルとして話題を呼びましたが、1987年に12年で離婚し、2012年6月15日に癌で亡くなりました。(訃報記事

TOMORROW ~After 1995.1.17~

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1995年1月17日・午前5時46分-阪神・淡路大震災発生から20年。あの巨大地震で、関西地方に住む人たちの生活は、一瞬にして崩れ去ってしまいました。死者数は6千人を超え、戦後に起きた自然災害として、1959年9月26日の伊勢湾台風を上回る大惨事になりました。
都市部を襲った震災により、阪神高速神戸線山陽新幹線などの高架橋倒壊が起こり、あの時も復旧までに膨大な時間がかかりました。

20世紀の世界史は「2つの世界大戦」を経験しましたが、これからの日本史は「2つの大震災」-阪神大震災東日本大震災を、どのように語り継いでゆくのでしょうか。
私が以前から気になっていることは「現在の社会科教科書の中では、阪神大震災をどのように教えているのだろうか」。社会科の教育、とりわけ歴史分野は「日進月歩」で変わっていきます。自分の学生時代には起きていなかった出来事も、育ちゆく子供たちには、既定事実のほんの一部にすぎません。

1995年を代表するヒット曲といえば、何があっただろうか。第37回日本レコード大賞受賞曲は『Overnight Sensation ~時代はあなたに委ねてる~』(歌・trf)が選ばれ、小室哲哉さんが音楽プロデューサーとして頂点を極め始めた頃。前年の1994年に日本レコード大賞を獲得した“ミスチル”ことMr. Children(ミスター・チルドレン)も、怒濤の快進撃を続けていました。
その中にあって、阪神大震災の被災者たちを元気づけた歌のひとつに、シンガー・ソングライター岡本真夜さんのデビュー曲『TOMORROW』がありました。この曲のシングル盤は、震災発生から4か月後の1995年5月10日に発売されて、200万枚を超える売り上げを記録しました。(時代の変化もあり、岡本さんにとっては後にも先にも唯一のミリオン・セラーだそうです。)
♪~ アスファルトに咲く花のように…♪
この表現の斬新さが、発表当時から大評判を呼び、『TOMORROW』は1996年の選抜高校野球入場行進曲にも採用されました。♪明日は来るよ…♪

TOMORROW』 (作詞・岡本真夜&真名杏樹/作曲・岡本真夜) <歌詞URL

ローレライ

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ローレライ』 (訳詞・近藤朔風) <歌詞URL:123
(Text: Heinrich Heine / Musik: Friedrich Silcher) <歌詞URL:123

♪なじかは知らねど 心わびて…♪ (『ローレライハイネ作詞/ジルヒャー作曲)
♪童は見たり 野なかの薔薇…♪ (『野ばらゲーテ作詞/シューベルト作曲・ヴェルナー作曲)
♪泉に添いて 茂る菩提樹…♪ (『菩提樹』ミュラー作詞/シューベルト作曲)
明治後期から大正初期にかけて、ドイツ歌曲を中心に「訳詞家」として活動した近藤朔風(こんどう・さくふう)が34歳11か月という若さで夭折してから、きょうは「100年目」の命日を迎えます(1880年2月14日-1915年1月14日)。
外国から輸入した歌曲の旋律に、いかにして適切な日本語の言葉をあてがい、日本人の心にも訴える形で紹介するか。きょうは朔風の名訳の中から、ハインリヒ・ハイネ作詞/フリードリヒ・ジルヒャージルヘル)作曲によるドイツ歌曲『ローレライ』《Die Lorelei》を調べてみようと考えました。

近藤朔風(本名・近藤逸五郎)は1880年(明治13年)2月14日、兵庫県豊岡市の地で、明治時代の政治家であった桜井勉(1843年-1931年)の五男として生まれました。桜井勉の業績は多方面に及び、日本各地に「気象測候所」を設置するなど、現在の日本社会の基盤を築いた政治家のひとりでした。
出生名・桜井逸五郎は9歳で母親を亡くし、13歳の時に近藤軌四郎の養子となって「近藤」姓に変わりました(近藤軌四郎の家と桜井家は、両夫妻とも最近親者の関係にあった)。錚々たる名家に育ち、中学卒業の頃から西洋クラシック音楽に関心を持ち始めた逸五郎は、東京音楽学校・東京外国語学校・東京美術学校に掛け持ちで在籍した後、堪能な語学力を生かして「訳詞家」の仕事を始めました。
ローレライ』(ロオレライ)の訳詞は、1909年(明治42年)11月発行の唱歌集「女聲唱歌」(全25曲収載/天谷秀・近藤逸五郎編/水野書店)に収められました。全25曲中14曲の訳詞を近藤朔風(文名)が自ら書き、シューベルト作曲『菩提樹』やヴェルナー作曲『野ばら』もこの歌集に取り上げられました。(「女聲唱歌」曲名一覧:うたごえサークルおけら
あまり種類が多くない参考文献を見ても、朔風の死去は突然だったようです。1915年大正4年)の正月明け早々に倒れた訳詞家は、1月14日に「面疔(めんちょう)と肝臓炎」で亡くなりました。彼の没年齢は「数え年」により「享年36歳」と記載されますが、満年齢では34歳11か月になります。
近藤朔風の墓は、東京都台東区の「谷中霊園」(やなかれいえん)内にあり、「朔風近藤逸五郎之墓」の手前に「大正四年一月十四日歿」と記載された石碑があります。(霊園写真
(主要参考資料:富山大学教育学部紀要近藤朔風とその訳詞曲再考)

♪なじかは知らねど 心わびて…♪ (近藤朔風訳詞)
19世紀ドイツを代表する大詩人、ハインリヒ・ハイネ(1797年12月13日-1856年2月17日)が詩の題材に取り上げた「ローレライ」とは、いったい何のことでしょうか。
ローレライ」(Loreley)はドイツの大河・ライン川沿いにある、高さ130mにのぼる岩山で、ドイツ南西部の都市「ザンクト・ゴアールスハウゼン」(St. Goarshausen)にそびえています。全長1200kmを超えるライン川流域の中でも、この一帯は最も川幅が狭く、航海の難所として有名でした。岩山の前で水難事故に遭う船乗りが多かったことから「ライン川の岩に住む長い金髪の妖精が、美しい歌声で船乗りたちを魅惑し、船を川の中に難破させる」伝説が広まりました。現地の古い方言から「妖精の岩」を意味する“Loreley”の名が生まれ、こうしてライン川の水の妖精にまつわる「ローレライ伝説」が語り継がれてゆきました。(当地の景観が見やすい写真は、ドイツ語サイト «Loreleystadt St. Goarshausen» にリンクしておきます。)
ハイネを代表する詩集「歌の本」は[若き悩み/抒情挿曲/帰郷/ハルツの旅から/北海]の全5部構成にまとめられて、1827年に刊行されました。「ローレライ」は詩集の第3部「帰郷」第2篇に置かれ、書かれた年代は1823年頃と考えられています。(「歌の本紹介サイト

ドイツの作曲家フリードリヒ・ジルヒャー(1789年6月27日-1860年8月26日)は、合唱作品の分野で多大な業績を残した人で、1838年に合唱曲《Die Lorelei》の旋律を書きました。彼の姓は、昔の日本語資料では「ジルヘル」と表記されていましたが、現在は「ジルヒャー」の読み方が最も普及しています。


(ドイツ語の原語歌唱。これも今なお広く歌われている)

ねこふんじゃった

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ねこふんじゃった』 (作詞・阪田寛夫/作曲・不詳) <歌詞URL資料室

前の記事に続いて、きょうは「誰でもピアノで弾ける、簡単な外国曲」で遊んでみましょう。楽譜は一見複雑そうに見えるのに、音の動きは単純で、大部分がピアノの黒い鍵盤だけで弾けてしまうのです。
♪ねこふんじゃった ねこふんじゃった…♪
私が小学生の時、教室にあった小型の電子オルガンで、放課の時間になると『ねこふんじゃった』を弾いて遊んでいた級友がいたので、歌には鮮明な記憶が残っています(教室の楽器の名前は忘れた)。

この愉快な変ト長調(=嬰ヘ長調)のメロディーは、作者名も発祥地も、何も分からない「出所不明」の謎に包まれた曲ですが、世界各地で広く知られた有名なフシであり、それぞれの言語で多種多様な歌詞がついているそうです。
日本語だと『ねこふんじゃった』の題名で、阪田寛夫氏(1925年10月18日-2005年3月22日)の作詞で親しまれていますが、諸外国では意外な詩も多く、歌詞がある地域は広範囲にのぼります(資料1)。
冒頭の「歌詞URL」を見ると『ねこふんじゃった』には、丘灯至夫氏(1917年2月8日-2009年11月24日)の作詞もあり、後から出た阪田寛夫氏の詩とは異なった趣を備えています(資料2)。
(この歌を研究した専門サイト・ねこふんじゃった資料室から、いろいろ調べられます。)

阪田寛夫氏の詩では、同じ音に終始一貫して「ねこ」を当てています。この反復により、主人公の子供と猫が一緒にあわてふためく様子が、生き生きと浮かび上がってきます。2番にいたっては、猫は雲の上に乗って、お空へ飛んで行きますが「あしたの朝おりて」くるかな…。

メリーさんの羊

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メリーさんのひつじ』 (作詞:高田三九三/原曲:アメリカ民謡) <歌詞URL:12

2015年は「未年」(ひつじどし)そういえば、ひつじの歌を調べてないな。最も有名な曲は、やはり英語圏のわらべ歌「マザー・グース」(Mother Goose)の中でも、世界中に広まったおなじみの歌《Mary Had A Little Lamb》(メリーさんのひつじ)でしょうか。
メリーちゃんはひつじを飼っていて、雪のように真っ白な毛だよ。メリーちゃんが行くところ、ひつじはどこへでもついて行くんだよ。ある日とうとう、ひつじメリーちゃんの学校までついてきた(→それで大騒ぎになった)。

Mary Had A Little Lamb》の詩の原作者は、19世紀アメリカの著名な雑誌編集者であったセイラー・J・ヘイル夫人です(Sarah Josepha Hale, 1788年10月24日-1879年4月30日)。彼女は傑出した児童文学作家・詩人として、1830年5月に子供向けの詩集『Poems for Our Children』を発表し、その一編として《Mary's Lamb》という題名の詩を書きました。(オリジナル
どのようにしてメロディーがつき、童謡《Mary Had A Little Lamb》として広まったか、そちらははっきりしていません(詩の原作者は著名な作家による、かなり珍しい事例)。

詩の誕生から半世紀もしないうちに、発明王トーマス・アルバ・エジソン(1847年2月11日-1931年10月18日)が1877年に「蓄音機」を作り上げ、最初の吹き込み実験で《Mary Had A Little Lamb》を自らの肉声で録音しました。エジソン蓄音機を通して『メリーさんのひつじ』は、歴史上最初の「録音」音源としても有名になったわけです。

日本語訳詞者の高田三九三氏(たかだ・さくぞう、1906年12月18日-2001年1月29日)は、作詞家・訳詞家として多くの傑作を残しました。彼の訳詞は『メリーさんのひつじ』のほかにも『すいかの名産地』(原曲・アメリカ民謡)『十人のインディアン』(原曲・アメリカ民謡)などが、今なおよく歌われています。
メリーさんのひつじ』の日本語訳だと、4番(生徒が笑った)までは英語の直訳調で、日本語でもうまく歌えます(これは凄い)。5番・6番はこの人でも手こずったようで「先生は怒って、メリーさんはしくしく泣き出した」と結んでいます。日本の学校だと、このほうがぴったりくるか(??)。

歳月はさらに流れ、1972年に「ポール・マッカートニーウイングス」が《Mary Had A Little Lamb》という題名の歌をヒットさせました。歌詞はマザー・グースの童謡をアレンジしながら、ポールがオリジナルの旋律を書いた曲です(これさえ知らなかったとは!)。
ウイングス」はビートルズ解散後、ポールと最初の妻リンダ、元「ムーディー・ブルース」のデニー・レインを中心に活動したバンドです(活動期間:1971年-81年)。ウイングスによる《Mary Had A Little Lamb》のモデルになった少女は、ポールリンダの間に誕生した長女メアリーでした。
日本語訳では、2つの異なる曲を区別できるように、ウイングスの作品には『メアリーの子羊』という題名をあてがっています。

曲名に「ひつじ」が入る音楽は、3年半ほど前に『琵琶湖周航の歌』の原形になった歌「ひつじぐさ」のルーツを調べたことがあります(2011年8月17日付・過去記事あり)。


(英語童謡の歌唱例は“mary had a little lamb + nursery rhyme”で調べる)


«Mary Had A Little Lamb» by Paul McCartney & Wings <歌詞URL

ロヴロ・フォン・マタチッチ

1985年(昭和60年)が明けて間もなく、最初に入ってきた音楽家のお悔やみは、私が以前から関心を寄せていたユーゴスラビアの長老指揮者でした。
「…ロヴロ・フォン・マタチッチ氏が4日、ザグレブで死去した。85歳。」
このニュースに接した時、私は高校受験準備の大詰めを迎えていました。何年か後、この指揮者が最後の来日公演で指揮した、アントン・ブルックナー作曲《交響曲 第8番 ハ短調》のライブ録音を聴き始めたことから、マタチッチ氏は私にとって「ブルックナーへの扉を開いてくれた人」となり、ここから私のブルックナーCD遍歴が始まりました。

没後30周年の節目:1985年1月没の巨匠音楽家2人>
* ロヴロ・フォン・マタチッチ(1899年2月14日-1985年1月4日)…ユーゴスラビアの指揮者。
* アントン・カラス(1906年7月7日-1985年1月10日)…オーストリアの作曲家。映画『第三の男』の音楽・ツィター演奏で有名。

私が初めてマタチッチ氏の名前を覚えたのは、クラシック音楽ファンになって間もなく、学校図書館で借りたガイドブックの中からでした。名指揮者たちの紹介コーナーで、カール・ベーム氏(オーストリア)が椅子に座って指揮する写真とともに「1894年生まれ」の現役指揮者として出ていました(発刊時はぎりぎり存命だったが、私が本を借りる少し前に亡くなった)。すぐ右隣にロヴロ・フォン・マタチッチ氏の名前があり、このユーゴスラビアの指揮者は「重厚な演奏で、ブルックナーを得意とする」と紹介されていました。
その少し後、私はクラシック音楽演奏家たちのエピソード集の本を買いました。NHK交響楽団の名誉指揮者であったマタチッチ氏は、愉快な逸話に事欠かない人のようでした。少年時代はあのウィーン少年合唱団に所属したけれど、指揮者として楽団員を怒鳴り続けているうちに、すっかりガラガラ声になったというのです。そのギャップの話を読んで、子供の私も吹き出すほど笑いました。
早くから興味をそそられる指揮者になった「マタチッチ氏死去」のニュースは、中学3年生の冬休みを送っていた私にも衝撃をもたらしました。まだFMラジオで彼の演奏をエアチェックしたこともないのに、彼の最も得意とした「ブルックナーを聴きたいな」という願いが、私の中に少しずつ芽生え始めました。

ロヴロ・フォン・マタチッチ氏は死の前年、1984年3月に生涯最後の来日公演を行い、名誉指揮者を務めるNHK交響楽団の指揮台に立って、自らの遺言のような演奏会を開きました。1984年3月7日にNHKホールで開かれた「ブルックナー交響曲 第8番 ハ短調」1曲だけのプログラムは、最も盛り上がった演奏会になり、開場前のNHKホールに「ダフ屋」まで出るほどの賑わいだったそうです。
高校時代の私は、とにかく勉強で忙しかったので、長大なブルックナーの交響曲は「聴いて覚える時間の余裕がない」遠い世界でした。学校の中にレコード・コレクターの先生がいらっしゃることを聞き、自分のカセットテープ(メタルテープ)を2本預けて、先生にブルックナーの交響曲第7番と第8番のダビングを依頼しました。第8番は「マタチッチN響の1984年ライブ録音」と決めていましたが、第7番はどの指揮者が録音したかさえ知らず、先生は「世間知らずの高校生」の頼みに戸惑われたことでしょう。
ようやく大学入試が終わり、熾烈な受験勉強から解放された私は、下宿先と実家を往復するバスの道中などでテープを聴き、少しずつブルックナーの交響曲第8番を覚え始めました。

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私がアントン・ブルックナーの交響曲に関心を持ち始めたきっかけは、何かのテレビコマーシャルで第8番の第4楽章冒頭部分に接して、重厚なサウンドにひかれた時でした。ディーゼルエンジンだっけ…?
(手がかり探し:三菱自動車・サイクロンエンジン・1986年放映-どの車種・バージョンか??)
テープを聴き始めてから、しばらくは「どこが良いか分からない」暗中模索の状態でしたが、第3楽章の崇高な美しさに聴き惚れるようになり、やがて第4楽章冒頭部の旋律までたどり着くことができました。ほどなくして、第1楽章の空漠な雰囲気や、第2楽章の無骨な面白さも分かってきました。カセットテープでブルックナーの第8番を聴く時は、A面で第2楽章を聴き終えたら、かなりの長時間を早送りして、それからやっとB面の第3楽章に入るので、相当な手間がかかります。マタチッチ氏の場合、第1・第2楽章(A面)の演奏時間が29分もかからないため、C-90(片面45分)テープを使うと、16分もの早送り時間で待たされました。
数年後にデンオン(日本コロムビア)の「マタチッチの遺産」シリーズで「ブルックナー交響曲 第8番 ハ短調」1984年ライブ録音のCD化が実現し、私もすぐに購入したのですが、LPレコード→メタルテープで聴いた時に比べたら、音質があまりにも貧弱な印象だったのが残念でした。

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ロヴロ・フォン・マタチッチ氏は1899年2月14日、クロアチア北西部にあるスシャクの地で、17世紀からの貴族の家庭に生まれました。彼の生涯中、祖国クロアチアはずっと歴史に翻弄され続け、誕生時はオーストリア=ハンガリー帝国の支配下に置かれ、逝去時は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」の構成国家でした。
9歳でウィーンへ移ったマタチッチ少年は、やがてウィーン少年合唱団に入団を認められ、変声期に入るまで4年間合唱団員を務めた後、指揮者への道を進み始めました。第2次世界大戦の動乱期には、彼にも多くの困難があり、1954年まで指揮活動を再開できなかったそうです。それ以後の彼は「東側」を代表する名指揮者のひとりとして、東側・西側をまたいで精力的な活動を続けました。

マタチッチ氏とNHK交響楽団の出会いは、1965年にNHKが招聘した「スラブ歌劇」公演で、ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』を指揮した時でした(公演記録)。2度目の来日公演は、1966年末-1967年明けの年末年始に行われ、1967年1月1日にN響から「名誉指揮者」の称号を授与されました。
N響名誉指揮者に就任してから、マタチッチ氏とオーケストラの間の絆はさらに深まり、1975年まで毎年のように日本を訪れて、広範囲なレパートリーを取り上げました。楽団員も聴衆も、マタチッチ氏とともに貴重な時間を過ごし、とりわけブルックナーの交響曲の演奏に深く魅了されました。
ところが、1975年11月-12月のN響定期公演終了後、マタチッチ氏の来日は途絶えました。さすがの巨匠も70歳代後半に入ると、体力の衰えを隠せなくなり、巨体を動かして歩くことさえ困難な状態に陥ったのです。
せめてもう1度、マエストロと一緒に演奏したい-N響からの要請により、マタチッチ氏は1984年3月に9年ぶりの来日公演を行いました。NHKホールに集まった聴衆も「これが最後だ」と意識し、巨匠が用意した3種類のプログラムに、ひときわ熱心に耳を傾けました。
* プログラムA:ブルックナー交響曲 第8番 ハ短調
* プログラムB:ベートーヴェン交響曲 第2番 ニ長調》/マタチッチ作曲《対決の交響曲
* プログラムC:ブラームス交響曲 第1番 ハ短調》/ベートーヴェン交響曲 第7番 イ長調

1984年3月のNHK交響楽団定期公演と、5月の「プラハの春音楽祭」出演を最後に、ロヴロ・フォン・マタチッチ氏は指揮活動を停止し、1985年1月4日にザグレブで85年の生涯を終えました。
巨匠が亡くなってから数年後に、一連の「ユーゴスラビア紛争」が始まり、巨大な社会主義連邦共和国はばらばらに解体してゆきます。1991年に勃発した「クロアチア紛争」により、クロアチアはユーゴスラビアからの独立を宣言し、現在のザグレブは民主主義国家「クロアチア共和国」の首都になりました。

動画サイト内から、1984年3月当時の生放送音源を見つけることができました。最初の5分間に丁寧な解説があって(これに貴重感あり)6分ほど経過した後「ブルックナー交響曲 第8番 ハ短調」第1楽章の演奏が始まります。


(追記) 本ブログの過去記事には「指揮者の命日」に焦点を当てたものが9本あります。
* ヘルベルト・フォン・カラヤン-2010年7月16日。(記事URL
* カール・ベームセルジュ・チェリビダッケ-2010年8月14日。(記事URL
* ジュゼッペ・シノーポリ-2011年4月20日。(記事URL
* カルロス・クライバー-2011年7月13日。(記事URL
* サー・ゲオルグ・ショルティ-2011年9月5日。(記事URL
* 朝比奈隆-2011年12月29日。(記事URL
* ギュンター・ヴァント-2012年2月14日。(記事URL
* カルロ・マリア・ジュリーニ-2012年6月14日。(記事URL
* ヴィルヘルム・フルトヴェングラー-2014年11月30日。(記事URL

あなた

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あなた』 (作詞・作曲/小坂明子) <歌詞URL:12

寒い冬の日に、小さな少女の夢を描き「大きくなって結婚したら、こんな家に住みたいな」。そんな憧れを若々しく歌い上げた『あなた』-いとしいあなた、甘美な歌は今どこにあるのだろう。このノスタルジックな名曲を生み出した小坂明子さんが、きょう58歳のお誕生日を迎えられました(1957年1月2日生)。
♪もしも私が家を建てたなら…♪ 当時16歳の少女だった小坂明子さんが歌詞に描き、ピアノを弾きながら歌い上げた「憧れの家」のたたずまい。ひとつひとつ、どれを取っても素敵な夢の暮らしです。可愛い子犬や坊やの横に『あなた』がいてほしい、愛しい人は今どこにいるの…。

1973年に作られた『あなた』は、ともにヤマハ主催の音楽家育成イベント「第6回ポピュラーソングコンテスト」(略称・ポプコン)と「第4回世界歌謡祭」でグランプリ受賞曲に輝き、同年末の12月21日に発売されたシングル盤は瞬く間にミリオンセラーとなり、やがて社会現象を起こしました。(資料URL:12
あなた』の後は、ヒット曲に恵まれず「一発屋」の印象もある小坂明子さんですが、あれ以後の彼女の人生はどうなったのでしょうか。比較的最近のインタビュー記事を読む機会があり、その中にご主人の話題も出ていたので「結婚できたんだな」と分かり、何となくほっとしました(息子さんが2人いる)。ご自身の公式サイトとブログもお持ちで、そこから最近の音楽活動を知ることができます。

ドレミの歌

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毎年1月1日「元旦」の朝になると、普段より格段に分厚い新聞が配達されます。1980年(昭和55年)元旦の新聞を見ていたら、学校で慣れ親しんでいた人の「死去」の知らせが載っていました。
リチャード・ロジャース氏(米国の作曲家)-(昨年)12月30日死去、77歳】
当時小学生だった私は、学校の全校合唱で『ドレミの歌』を習っていたので、元旦の分厚い朝刊の訃報欄を読んだ時「え~、あれを作曲した人が亡くなった?!」と気づきました。年端のゆかない子供だと、訃報の大きさがどれくらいだったか、細かい記憶は全然残っていません。
アメリカ最大のミュージカル作曲家、リチャード・ロジャース氏の死去の知らせが、私にとって「自分が知っている人の死を、新聞を読んで知った」最初の経験であったことは確かです。

リチャード・ロジャース氏(1902年6月28日-1979年12月30日)は音楽人生を通じて、2人の作詞家と緊密な協力関係を築き、アメリカ・ニューヨーク発の「ブロードウェイ・ミュージカル」を世界中に広めた作曲家です。
* ロレンツ・ハート(1895年5月2日-1943年11月22日)
* オスカー・ハマースタイン2世(1895年7月12日-1960年8月23日)
ドレミの歌』は「ロジャースハマースタイン」コンビによる最後のミュージカル作品『サウンド・オブ・ミュージック』からのナンバーで、日本でもペギー葉山さんの訳詞で幅広く浸透しました。同じミュージカルの挿入歌では『エーデルワイス』も絶大な人気があります(これも学校で習った)。

♪ドはドーナツのド レはレモンのレ…♪
誰もが知っている『ドレミの歌』歌い出しの言葉。ペギー葉山さんがミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』と出会ったのは、1960年にニューヨークを訪れて、ブロードウェイの劇場上演を見た時でした。主演女優のメリー・マーティンさんと子供たちが歌う『ドレミの歌』に深い感銘を受け、この歌を日本に紹介したいと願ったペギー葉山さんは、劇場内の売店でボーカル・スコアとオリジナルLP盤を購入し、直ちに歌詞の翻訳作業に取りかかりました。こうして生まれた『ドレミの歌』日本語版は、1961年にペギー葉山さん自身の歌唱で最初のレコードが発売され、1962年6月-7月にNHK「みんなのうた」で初回放送されました。(主要参考資料:劇団四季NHKオンラインなど)
オスカー・ハマースタイン2世が書いたオリジナルの英語歌詞も「ドレミファソラシド」を子供たちに覚えさせるアイデアの練習。英語と同じ単語を当てなくてもよいわけで、日本語訳は「ドーナツ」と「レモン」から歌が始まり、みんなで一緒に空を仰ぎながら「幸せの歌」を高らかに歌います。
サウンド・オブ・ミュージック』の映画化は1965年ですから、こちらの主演女優ジュリー・アンドリュースさんが歌った『ドレミの歌』よりも、ペギー葉山さんの紹介のほうが早かったことになります。

これほどの人気曲になると「替え歌」もさまざま、ピンからキリまで出てくるものです。私も「食べ物」アレンジの替え歌で遊んだことがありますが、現代のインターネット社会では、びっくりネタも瞬く間に拡散していきます。これはもう11年前のネタだとか(2003年5月)。
<替え歌の一例:食べ物に置き換えた>
♪ドはドーナツのド レはレモンのレ → ミはみかんのミ ファはファンタのファ
ソはそらまめだ ラはラーメンだ シはシュウマイだ さあ食べましょう…♪

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ロジャースハマースタイン」は、ブロードウェイ・ミュージカル史上最強の名コンビとして、歴史を築く名作を次々に送り出しました。
ロジャースハマースタインによるブロードウェイ・ミュージカル:全9作>
オクラホマ!(1943年)/回転木馬(1945年)/アレグロ(1947年)/南太平洋(1949年)
王様と私(1951年)/ミー・アンド・ジュリエット(1953年)/パイプ・ドリーム(1955年)
フラワー・ドラム・ソング(1958年)/サウンド・オブ・ミュージック(1959年)
[他ジャンル作品:映画『ステート・フェア』(1945年)/テレビミュージカル『シンデレラ』(1957年)]

サウンド・オブ・ミュージック』は1959年11月16日にブロードウェイで初演され、1000回を超えるロングラン興行が行われましたが、上演開始からわずか9か月後、1960年8月23日に作詞者のオスカー・ハマースタイン2世が65歳で亡くなりました。17年間に及んだ共同作業のパートナーを失い、途方に暮れたリチャード・ロジャース氏ですが、5年後の1965年に映画化を完成させました。『ウエスト・サイド・ストーリー』の映画版も手がけたロバート・ワイズ監督のもと、主演女優のジュリー・アンドリュースさんが『ドレミの歌』を歌っています。

リチャード・ロジャース氏はその輝かしい作曲活動により、アメリカ国内で授与される、最も誉れ高い芸術賞をすべて受賞した人です。
ロジャース氏の受賞歴:エミー賞・グラミー賞・アカデミー賞・トニー賞/ピュリッツァー賞]
エミー賞(テレビ)グラミー賞(音楽)アカデミー賞(映画)トニー賞(演劇・ミュージカル)4賞すべての受賞者を「EGOT Winners」と呼びますが、ロジャース氏は1962年に最初の「EGOT」完全制覇達成者となりました。さらにピュリッツァー賞(ジャーナリズム・文学・評論)を加えると、5賞の受賞者はロジャース氏とマーヴィン・ハムリッシュ氏(『コーラスライン』作曲者)の2人しかいません。
1978年に新しく「ケネディ・センター名誉賞」が創設され、ロジャース氏は記念碑的な「第1回受賞者」のひとりに選ばれました(受賞者一覧表)。第1回授賞式から1年後、アメリカ音楽界の頂点を極めた天才作曲家は、1979年12月30日に77歳で亡くなりました。

現在は「リチャード・ロジャース」と聞くと、イギリスの有名な建築家もいます。2人の名前は、英語の綴りは異なっていますが(作曲家:Richard Rodgers/建築家:Richard Rogers)日本語だと名前の響きが全く同じですから、ついつい間違えそうです。建築家の人も歴史的な巨匠だし…。

ドレミの歌』 (日本語詞:ペギー葉山) <歌詞URL:1234
(Lyrics by Oscar Hammerstein II / Music by Richard Rodgers)


(映画『サウンド・オブ・ミュージック』より、ジュリー・アンドリュースさんの歌唱場面)

襟裳岬

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襟裳岬』 (歌・森進一/作詞・岡本おさみ/作曲・吉田拓郎) <歌詞URL

いろいろな出来事があった2014年も、残りわずかになりました。ブログでさまざまな日本のヒット・ポップスを調べていくうちに、私の中で「40年前の音楽をリアルタイムで味わいたかった」遡及不可能な思いが強くなってきました。この世に生まれていたけれど、まだまだ幼すぎて、大人たちの歌の意味までは分からなかった、遠い昔の思い出をたどってみたい。
ちょうど40年前、1974年(昭和49年)の大晦日「第16回日本レコード大賞」に輝き、この年の音楽シーンを締めくくった曲は、森進一さんの『襟裳岬』(えりもみさき)でした。レコード大賞授賞式に続いて、第25回NHK紅白歌合戦の華々しい祭典が開催され、トリ・島倉千代子さんと大トリ・森進一さんが実り豊かな年の最後を『襟裳岬』の「同名異曲」競演で締めくくりました。

襟裳岬」の場所は、北海道南部にそびえ立つ「日高山脈」の最南端部、幌泉郡(ほろいずみぐん)えりも町にあります。南の最果ての岬は、1年を通して冷たい強風が吹き荒れ、厳しい気候の中に雄大な自然が広がっています。ここは日本地図を眺めても、とてつもなく遠い絶壁のように感じられます。
♪襟裳の春は 何もない春です…♪
森進一さんの『襟裳岬』の歌詞で、最も話題を呼んできたサビの部分。当然ながら、えりも町の地元住民が反発を表明したこともあります。それでも、歌の浸透とともに、襟裳岬を訪れる観光客の数は増えてゆきました。現在は襟裳岬に歌碑が2基並んで建ち、右側に島倉千代子さん、左側に森進一さんの歌碑が建っています。
島倉千代子さんの『襟裳岬』は、シングル盤発売は1961年5月で、先に出た曲も100万枚を売り上げるほどの人気作になり、歌碑は1971年に建立されました。それから3年後に森進一さんが「同名異曲」で日本音楽界の頂点を極め、こちらの歌碑は大ヒットから23年後の1997年に完成しました。

森進一さんの歌は、変ホ長調(フラット3つ、E-flat major)で書かれた旋律が、襟裳の雄大な自然の広がりや厳しい気候を立体的に表現しています。幼き日の私も、無意識のうちにテレビ越しで聴いたか、何も記憶にないのですが、吉田拓郎さんの曲の凄さは「肌で分かる」ように感じました。
本当は「自分の観光体験」を基にして、思い入れたっぷりに書ければよいのですが、愛知県の温暖な地で寒がりの暮らしを送っている私には、北海道の最果ての襟裳岬は「一生行く機会のない地」のように思えます。最寄りの観光地「襟裳岬・風の館」の観光案内公式サイトを、記事に貼ってみました。

襟裳岬』 (歌・島倉千代子/作詞・丘灯至夫/作曲・遠藤実) <歌詞URL

HAPPY ~PHARRELL WILLIAMS~

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「2014年度最大のヒット作は?」と尋ねられたら、ほとんどの方がディズニー映画『アナと雪の女王』と主題歌『レット・イット・ゴー ~ありのままで~』を挙げるでしょう。今年は洋楽界でも、全世界に浸透した大ヒット曲を聴くことができました。
2014年度最大の洋楽ヒット曲-ファレル・ウィリアムスさん(1973年4月5日生まれ)が世界の頂点を極めた《Happy》(ハッピー)幸せの歌。この曲は日本でも大反響を呼び、いろいろな人たちがネット上に踊りの動画を投稿しています。
日本人の音楽愛好家だと、ファレルの ♪Because I'm happy ~ ♪ の歌声と、繰り返し織り交ぜられる拍手の音を聴いて「坂本九さんの『幸せなら手をたたこう』を思い出す」そんな連想も出るでしょう。国民的スター歌手の九ちゃんが『幸せなら手をたたこう』を高らかに歌ったのは、1964年の東京オリンピックの時でした。歌のヒットから半世紀、歌手の不運な事故死から30年近く、それほどの年月が瞬く間に過ぎて行ったとは…。(『幸せなら手をたたこう歌詞URL

私にはよくあるパターンですが「パロディを聴いて、それから元歌をたどる」。実はファレル・ウィリアムスさんの《Happy》に接したきっかけも、公認パロディからでした。「パロディの帝王」ウィアード・アル・ヤンコビックさんの最新作アルバム『Mandatory Fun』(マンダトリー・ファン)の第11曲に、《Happy》のパロディ曲《Tacky》(タッキー:「ダサい」)が入っているのです。
一見カッコ良さそうに思えるけど、実は「ダサい」こと-ヤンコビックさんが選んだ事例は、替え歌歌詞とともにリンクした「ABC振興会」の日本語訳から概観できます。

«Happy» by Pharrell Williams <歌詞URL日本語訳例


(歌詞・日本語訳詞つきの編集動画。並べて配置されている物)


(Parody) «Tacky» by "Weird Al" Yankovic <歌詞URL日本語訳

エストレリータ ~小さな星~

EstrellitaEstrellita

音楽でフランスとジャマイカを旅したら、今度はカリブ海に近い大国・メキシコの「最も広く知られたクラシック音楽のメロディー」を聴いてみましょう。
「メキシコ近代音楽の父」と呼ばれる作曲家、マヌエル・マリア・ポンセ(1882年12月8日-1948年4月24日)による《Estrellita》(エストレリータ:『小さな星』)の旋律は、いろいろな場面で耳にされた方が多いでしょう。

Estrellita》(エストレリータ)は、20世紀を代表するヴァイオリンの巨匠ヤッシャ・ハイフェッツ(1901年2月2日-1987年12月10日)の編曲によって広まり、現在はヴァイオリンのみならず、多種多様な楽器による編曲演奏が行われています。元来は「メキシコ歌曲集」(1914年出版)の中に収められたスペイン語歌曲であり、ポンセ自身が作詞も手がけました。(オリジナル:原詩日本語訳

現時点での動画サイト内から《Estrellita》最初の編曲者、ヤッシャ・ハイフェッツ氏によるヴァイオリン演奏版が見つかりましたので、記事の最後に巨匠の名演奏をお楽しみくださいませ。

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Author:SC
とにかく音楽が大好き。クラシック・ポピュラーのCDで自室を埋め尽くしています。

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