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赤いサラファン

Red_Sarafan_1   Red_Sarafan_2

赤いサラファン』 (日本語詞:津川主一) <歌詞URL:1234
«Красный Сарафан» (Nikolay Tsiganov / Aleksandr E. Varlamov)

今年も「成人の日」が終わり、20歳の「新成人」たちが社会に巣立って行きました。元気はつらつとした若者たちの姿を見守りながら、大人たちは自分の若かりし日を振り返り「若い時はいつまでも続かず、瞬く間に終わるものだよ」と言い聞かせる…。
有名なロシア歌曲『赤いサラファン』は、若い娘と年老いた母親の会話の歌です。19世紀前半の帝政ロシアで生まれた歌曲は、日本にもかなり早く伝えられて、何人かの訳詞家が翻訳を手がけました。記事冒頭に載せた「歌詞URL:12」では、この歌い出しの訳詞をリンクしてあります。
赤いサラファン縫うてみても 楽しいあの日は帰りゃせぬ…♪

「サラファン」とはロシアの女性用民族衣装の一種で、ブラウスの上に羽織るジャンパースカートのような形状をしています。スタイルも色も多種多様にありますが、赤いサラファンは婚礼衣装として用いられました。
ロシア歌曲《Красный Сарафан》の原詩は、全部で10連構成になっています。前半の第1連-第5連は娘が結婚の話に反発して「私に赤いサラファンを縫わないでね、もう少し自由を楽しみたいの」と言います。後半の第6連-第10連は母親が、結婚を嫌がる娘に「若い時の楽しさは、じきに終わるものだよ。私にも若い娘時代があったのだよ」と語りかけます。(原語で歌う海外曲
津川主一氏の訳詞は、後半の母親のせりふに絞って作られています。年配の女性の話し言葉を用いることで「おばあちゃんからのメッセージ」が、日本の聴き手の心にも届くような名訳です。

<『赤いサラファン』作者・訳者プロフィール>
作詞者:ニコライ・ツィガーノフ(Nikolay Tsiganov)…1797年(?)-1831年(?)。サンクトペテルブルク生まれの俳優・詩人。彼の没後、雑誌に掲載された詩が『赤いサラファン』の歌になった。
作曲者:アレクサンドル・ヴァルラーモフ(Aleksandr Egorovich Varlamov)…1801年11月27日-1848年10月27日。モスクワ生まれの作曲家。歌曲作曲のみならず、歌唱法の本の著述やロシア・ウクライナの民謡編曲にも取り組んだ。(英文資料例:12
訳詞者:津川主一(つがわ・しゅいち)…1896年11月16日-1971年5月3日。愛知県名古屋市出身の教会音楽家・合唱指揮者・訳詞家。訳詞分野では、教会賛美歌の翻訳やスティーブン・フォスターの歌曲研究などで広く知られる。
この曲は「ロシア民謡」と書かれることが多いのですが、作者名が分かっているので、より厳密に分類すれば「民謡」ではなく「歌曲」になります。歌の成立年代は、ツィガーノフの没後間もない、1833年-1834年頃と考えられています。

私が初めてこの歌を知ったのは、まだ10歳ぐらいの時で、クラシック音楽入門者向けのLPレコードセットを通して覚えました。その当時はまだ育ち盛りの子供で「若い時もいつかは終わる」と考えたくない年頃でしたが、あれから何十年の時が流れ去り、心身が否応なしに衰え始めた今は ♪楽しいあの日は帰りゃせぬ…♪ と語りかける母親のせりふが、自分の実感になっています。

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ローレライ

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ローレライ』 (訳詞・近藤朔風) <歌詞URL:123
(Text: Heinrich Heine / Musik: Friedrich Silcher) <歌詞URL:123

♪なじかは知らねど 心わびて…♪ (『ローレライハイネ作詞/ジルヒャー作曲)
♪童は見たり 野なかの薔薇…♪ (『野ばらゲーテ作詞/シューベルト作曲・ヴェルナー作曲)
♪泉に添いて 茂る菩提樹…♪ (『菩提樹』ミュラー作詞/シューベルト作曲)
明治後期から大正初期にかけて、ドイツ歌曲を中心に「訳詞家」として活動した近藤朔風(こんどう・さくふう)が34歳11か月という若さで夭折してから、きょうは「100年目」の命日を迎えます(1880年2月14日-1915年1月14日)。
外国から輸入した歌曲の旋律に、いかにして適切な日本語の言葉をあてがい、日本人の心にも訴える形で紹介するか。きょうは朔風の名訳の中から、ハインリヒ・ハイネ作詞/フリードリヒ・ジルヒャージルヘル)作曲によるドイツ歌曲『ローレライ』《Die Lorelei》を調べてみようと考えました。

近藤朔風(本名・近藤逸五郎)は1880年(明治13年)2月14日、兵庫県豊岡市の地で、明治時代の政治家であった桜井勉(1843年-1931年)の五男として生まれました。桜井勉の業績は多方面に及び、日本各地に「気象測候所」を設置するなど、現在の日本社会の基盤を築いた政治家のひとりでした。
出生名・桜井逸五郎は9歳で母親を亡くし、13歳の時に近藤軌四郎の養子となって「近藤」姓に変わりました(近藤軌四郎の家と桜井家は、両夫妻とも最近親者の関係にあった)。錚々たる名家に育ち、中学卒業の頃から西洋クラシック音楽に関心を持ち始めた逸五郎は、東京音楽学校・東京外国語学校・東京美術学校に掛け持ちで在籍した後、堪能な語学力を生かして「訳詞家」の仕事を始めました。
ローレライ』(ロオレライ)の訳詞は、1909年(明治42年)11月発行の唱歌集「女聲唱歌」(全25曲収載/天谷秀・近藤逸五郎編/水野書店)に収められました。全25曲中14曲の訳詞を近藤朔風(文名)が自ら書き、シューベルト作曲『菩提樹』やヴェルナー作曲『野ばら』もこの歌集に取り上げられました。(「女聲唱歌」曲名一覧:うたごえサークルおけら
あまり種類が多くない参考文献を見ても、朔風の死去は突然だったようです。1915年大正4年)の正月明け早々に倒れた訳詞家は、1月14日に「面疔(めんちょう)と肝臓炎」で亡くなりました。彼の没年齢は「数え年」により「享年36歳」と記載されますが、満年齢では34歳11か月になります。
近藤朔風の墓は、東京都台東区の「谷中霊園」(やなかれいえん)内にあり、「朔風近藤逸五郎之墓」の手前に「大正四年一月十四日歿」と記載された石碑があります。(霊園写真
(主要参考資料:富山大学教育学部紀要近藤朔風とその訳詞曲再考)

♪なじかは知らねど 心わびて…♪ (近藤朔風訳詞)
19世紀ドイツを代表する大詩人、ハインリヒ・ハイネ(1797年12月13日-1856年2月17日)が詩の題材に取り上げた「ローレライ」とは、いったい何のことでしょうか。
ローレライ」(Loreley)はドイツの大河・ライン川沿いにある、高さ130mにのぼる岩山で、ドイツ南西部の都市「ザンクト・ゴアールスハウゼン」(St. Goarshausen)にそびえています。全長1200kmを超えるライン川流域の中でも、この一帯は最も川幅が狭く、航海の難所として有名でした。岩山の前で水難事故に遭う船乗りが多かったことから「ライン川の岩に住む長い金髪の妖精が、美しい歌声で船乗りたちを魅惑し、船を川の中に難破させる」伝説が広まりました。現地の古い方言から「妖精の岩」を意味する“Loreley”の名が生まれ、こうしてライン川の水の妖精にまつわる「ローレライ伝説」が語り継がれてゆきました。(当地の景観が見やすい写真は、ドイツ語サイト «Loreleystadt St. Goarshausen» にリンクしておきます。)
ハイネを代表する詩集「歌の本」は[若き悩み/抒情挿曲/帰郷/ハルツの旅から/北海]の全5部構成にまとめられて、1827年に刊行されました。「ローレライ」は詩集の第3部「帰郷」第2篇に置かれ、書かれた年代は1823年頃と考えられています。(「歌の本紹介サイト

ドイツの作曲家フリードリヒ・ジルヒャー(1789年6月27日-1860年8月26日)は、合唱作品の分野で多大な業績を残した人で、1838年に合唱曲《Die Lorelei》の旋律を書きました。彼の姓は、昔の日本語資料では「ジルヘル」と表記されていましたが、現在は「ジルヒャー」の読み方が最も普及しています。


(ドイツ語の原語歌唱。これも今なお広く歌われている)

ねこふんじゃった

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ねこふんじゃった』 (作詞・阪田寛夫/作曲・不詳) <歌詞URL資料室

前の記事に続いて、きょうは「誰でもピアノで弾ける、簡単な外国曲」で遊んでみましょう。楽譜は一見複雑そうに見えるのに、音の動きは単純で、大部分がピアノの黒い鍵盤だけで弾けてしまうのです。
♪ねこふんじゃった ねこふんじゃった…♪
私が小学生の時、教室にあった小型の電子オルガンで、放課の時間になると『ねこふんじゃった』を弾いて遊んでいた級友がいたので、歌には鮮明な記憶が残っています(教室の楽器の名前は忘れた)。

この愉快な変ト長調(=嬰ヘ長調)のメロディーは、作者名も発祥地も、何も分からない「出所不明」の謎に包まれた曲ですが、世界各地で広く知られた有名なフシであり、それぞれの言語で多種多様な歌詞がついているそうです。
日本語だと『ねこふんじゃった』の題名で、阪田寛夫氏(1925年10月18日-2005年3月22日)の作詞で親しまれていますが、諸外国では意外な詩も多く、歌詞がある地域は広範囲にのぼります(資料1)。
冒頭の「歌詞URL」を見ると『ねこふんじゃった』には、丘灯至夫氏(1917年2月8日-2009年11月24日)の作詞もあり、後から出た阪田寛夫氏の詩とは異なった趣を備えています(資料2)。
(この歌を研究した専門サイト・ねこふんじゃった資料室から、いろいろ調べられます。)

阪田寛夫氏の詩では、同じ音に終始一貫して「ねこ」を当てています。この反復により、主人公の子供と猫が一緒にあわてふためく様子が、生き生きと浮かび上がってきます。2番にいたっては、猫は雲の上に乗って、お空へ飛んで行きますが「あしたの朝おりて」くるかな…。

メリーさんの羊

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メリーさんのひつじ』 (作詞:高田三九三/原曲:アメリカ民謡) <歌詞URL:12

2015年は「未年」(ひつじどし)そういえば、ひつじの歌を調べてないな。最も有名な曲は、やはり英語圏のわらべ歌「マザー・グース」(Mother Goose)の中でも、世界中に広まったおなじみの歌《Mary Had A Little Lamb》(メリーさんのひつじ)でしょうか。
メリーちゃんはひつじを飼っていて、雪のように真っ白な毛だよ。メリーちゃんが行くところ、ひつじはどこへでもついて行くんだよ。ある日とうとう、ひつじメリーちゃんの学校までついてきた(→それで大騒ぎになった)。

Mary Had A Little Lamb》の詩の原作者は、19世紀アメリカの著名な雑誌編集者であったセイラー・J・ヘイル夫人です(Sarah Josepha Hale, 1788年10月24日-1879年4月30日)。彼女は傑出した児童文学作家・詩人として、1830年5月に子供向けの詩集『Poems for Our Children』を発表し、その一編として《Mary's Lamb》という題名の詩を書きました。(オリジナル
どのようにしてメロディーがつき、童謡《Mary Had A Little Lamb》として広まったか、そちらははっきりしていません(詩の原作者は著名な作家による、かなり珍しい事例)。

詩の誕生から半世紀もしないうちに、発明王トーマス・アルバ・エジソン(1847年2月11日-1931年10月18日)が1877年に「蓄音機」を作り上げ、最初の吹き込み実験で《Mary Had A Little Lamb》を自らの肉声で録音しました。エジソン蓄音機を通して『メリーさんのひつじ』は、歴史上最初の「録音」音源としても有名になったわけです。

日本語訳詞者の高田三九三氏(たかだ・さくぞう、1906年12月18日-2001年1月29日)は、作詞家・訳詞家として多くの傑作を残しました。彼の訳詞は『メリーさんのひつじ』のほかにも『すいかの名産地』(原曲・アメリカ民謡)『十人のインディアン』(原曲・アメリカ民謡)などが、今なおよく歌われています。
メリーさんのひつじ』の日本語訳だと、4番(生徒が笑った)までは英語の直訳調で、日本語でもうまく歌えます(これは凄い)。5番・6番はこの人でも手こずったようで「先生は怒って、メリーさんはしくしく泣き出した」と結んでいます。日本の学校だと、このほうがぴったりくるか(??)。

歳月はさらに流れ、1972年に「ポール・マッカートニーウイングス」が《Mary Had A Little Lamb》という題名の歌をヒットさせました。歌詞はマザー・グースの童謡をアレンジしながら、ポールがオリジナルの旋律を書いた曲です(これさえ知らなかったとは!)。
ウイングス」はビートルズ解散後、ポールと最初の妻リンダ、元「ムーディー・ブルース」のデニー・レインを中心に活動したバンドです(活動期間:1971年-81年)。ウイングスによる《Mary Had A Little Lamb》のモデルになった少女は、ポールリンダの間に誕生した長女メアリーでした。
日本語訳では、2つの異なる曲を区別できるように、ウイングスの作品には『メアリーの子羊』という題名をあてがっています。

曲名に「ひつじ」が入る音楽は、3年半ほど前に『琵琶湖周航の歌』の原形になった歌「ひつじぐさ」のルーツを調べたことがあります(2011年8月17日付・過去記事あり)。


(英語童謡の歌唱例は“mary had a little lamb + nursery rhyme”で調べる)


«Mary Had A Little Lamb» by Paul McCartney & Wings <歌詞URL

ドレミの歌

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毎年1月1日「元旦」の朝になると、普段より格段に分厚い新聞が配達されます。1980年(昭和55年)元旦の新聞を見ていたら、学校で慣れ親しんでいた人の「死去」の知らせが載っていました。
リチャード・ロジャース氏(米国の作曲家)-(昨年)12月30日死去、77歳】
当時小学生だった私は、学校の全校合唱で『ドレミの歌』を習っていたので、元旦の分厚い朝刊の訃報欄を読んだ時「え~、あれを作曲した人が亡くなった?!」と気づきました。年端のゆかない子供だと、訃報の大きさがどれくらいだったか、細かい記憶は全然残っていません。
アメリカ最大のミュージカル作曲家、リチャード・ロジャース氏の死去の知らせが、私にとって「自分が知っている人の死を、新聞を読んで知った」最初の経験であったことは確かです。

リチャード・ロジャース氏(1902年6月28日-1979年12月30日)は音楽人生を通じて、2人の作詞家と緊密な協力関係を築き、アメリカ・ニューヨーク発の「ブロードウェイ・ミュージカル」を世界中に広めた作曲家です。
* ロレンツ・ハート(1895年5月2日-1943年11月22日)
* オスカー・ハマースタイン2世(1895年7月12日-1960年8月23日)
ドレミの歌』は「ロジャースハマースタイン」コンビによる最後のミュージカル作品『サウンド・オブ・ミュージック』からのナンバーで、日本でもペギー葉山さんの訳詞で幅広く浸透しました。同じミュージカルの挿入歌では『エーデルワイス』も絶大な人気があります(これも学校で習った)。

♪ドはドーナツのド レはレモンのレ…♪
誰もが知っている『ドレミの歌』歌い出しの言葉。ペギー葉山さんがミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』と出会ったのは、1960年にニューヨークを訪れて、ブロードウェイの劇場上演を見た時でした。主演女優のメリー・マーティンさんと子供たちが歌う『ドレミの歌』に深い感銘を受け、この歌を日本に紹介したいと願ったペギー葉山さんは、劇場内の売店でボーカル・スコアとオリジナルLP盤を購入し、直ちに歌詞の翻訳作業に取りかかりました。こうして生まれた『ドレミの歌』日本語版は、1961年にペギー葉山さん自身の歌唱で最初のレコードが発売され、1962年6月-7月にNHK「みんなのうた」で初回放送されました。(主要参考資料:劇団四季NHKオンラインなど)
オスカー・ハマースタイン2世が書いたオリジナルの英語歌詞も「ドレミファソラシド」を子供たちに覚えさせるアイデアの練習。英語と同じ単語を当てなくてもよいわけで、日本語訳は「ドーナツ」と「レモン」から歌が始まり、みんなで一緒に空を仰ぎながら「幸せの歌」を高らかに歌います。
サウンド・オブ・ミュージック』の映画化は1965年ですから、こちらの主演女優ジュリー・アンドリュースさんが歌った『ドレミの歌』よりも、ペギー葉山さんの紹介のほうが早かったことになります。

これほどの人気曲になると「替え歌」もさまざま、ピンからキリまで出てくるものです。私も「食べ物」アレンジの替え歌で遊んだことがありますが、現代のインターネット社会では、びっくりネタも瞬く間に拡散していきます。これはもう11年前のネタだとか(2003年5月)。
<替え歌の一例:食べ物に置き換えた>
♪ドはドーナツのド レはレモンのレ → ミはみかんのミ ファはファンタのファ
ソはそらまめだ ラはラーメンだ シはシュウマイだ さあ食べましょう…♪

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ロジャースハマースタイン」は、ブロードウェイ・ミュージカル史上最強の名コンビとして、歴史を築く名作を次々に送り出しました。
ロジャースハマースタインによるブロードウェイ・ミュージカル:全9作>
オクラホマ!(1943年)/回転木馬(1945年)/アレグロ(1947年)/南太平洋(1949年)
王様と私(1951年)/ミー・アンド・ジュリエット(1953年)/パイプ・ドリーム(1955年)
フラワー・ドラム・ソング(1958年)/サウンド・オブ・ミュージック(1959年)
[他ジャンル作品:映画『ステート・フェア』(1945年)/テレビミュージカル『シンデレラ』(1957年)]

サウンド・オブ・ミュージック』は1959年11月16日にブロードウェイで初演され、1000回を超えるロングラン興行が行われましたが、上演開始からわずか9か月後、1960年8月23日に作詞者のオスカー・ハマースタイン2世が65歳で亡くなりました。17年間に及んだ共同作業のパートナーを失い、途方に暮れたリチャード・ロジャース氏ですが、5年後の1965年に映画化を完成させました。『ウエスト・サイド・ストーリー』の映画版も手がけたロバート・ワイズ監督のもと、主演女優のジュリー・アンドリュースさんが『ドレミの歌』を歌っています。

リチャード・ロジャース氏はその輝かしい作曲活動により、アメリカ国内で授与される、最も誉れ高い芸術賞をすべて受賞した人です。
ロジャース氏の受賞歴:エミー賞・グラミー賞・アカデミー賞・トニー賞/ピュリッツァー賞]
エミー賞(テレビ)グラミー賞(音楽)アカデミー賞(映画)トニー賞(演劇・ミュージカル)4賞すべての受賞者を「EGOT Winners」と呼びますが、ロジャース氏は1962年に最初の「EGOT」完全制覇達成者となりました。さらにピュリッツァー賞(ジャーナリズム・文学・評論)を加えると、5賞の受賞者はロジャース氏とマーヴィン・ハムリッシュ氏(『コーラスライン』作曲者)の2人しかいません。
1978年に新しく「ケネディ・センター名誉賞」が創設され、ロジャース氏は記念碑的な「第1回受賞者」のひとりに選ばれました(受賞者一覧表)。第1回授賞式から1年後、アメリカ音楽界の頂点を極めた天才作曲家は、1979年12月30日に77歳で亡くなりました。

現在は「リチャード・ロジャース」と聞くと、イギリスの有名な建築家もいます。2人の名前は、英語の綴りは異なっていますが(作曲家:Richard Rodgers/建築家:Richard Rogers)日本語だと名前の響きが全く同じですから、ついつい間違えそうです。建築家の人も歴史的な巨匠だし…。

ドレミの歌』 (日本語詞:ペギー葉山) <歌詞URL:1234
(Lyrics by Oscar Hammerstein II / Music by Richard Rodgers)


(映画『サウンド・オブ・ミュージック』より、ジュリー・アンドリュースさんの歌唱場面)
プロフィール

SC

Author:SC
とにかく音楽が大好き。クラシック・ポピュラーのCDで自室を埋め尽くしています。

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