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ロヴロ・フォン・マタチッチ

1985年(昭和60年)が明けて間もなく、最初に入ってきた音楽家のお悔やみは、私が以前から関心を寄せていたユーゴスラビアの長老指揮者でした。
「…ロヴロ・フォン・マタチッチ氏が4日、ザグレブで死去した。85歳。」
このニュースに接した時、私は高校受験準備の大詰めを迎えていました。何年か後、この指揮者が最後の来日公演で指揮した、アントン・ブルックナー作曲《交響曲 第8番 ハ短調》のライブ録音を聴き始めたことから、マタチッチ氏は私にとって「ブルックナーへの扉を開いてくれた人」となり、ここから私のブルックナーCD遍歴が始まりました。

没後30周年の節目:1985年1月没の巨匠音楽家2人>
* ロヴロ・フォン・マタチッチ(1899年2月14日-1985年1月4日)…ユーゴスラビアの指揮者。
* アントン・カラス(1906年7月7日-1985年1月10日)…オーストリアの作曲家。映画『第三の男』の音楽・ツィター演奏で有名。

私が初めてマタチッチ氏の名前を覚えたのは、クラシック音楽ファンになって間もなく、学校図書館で借りたガイドブックの中からでした。名指揮者たちの紹介コーナーで、カール・ベーム氏(オーストリア)が椅子に座って指揮する写真とともに「1894年生まれ」の現役指揮者として出ていました(発刊時はぎりぎり存命だったが、私が本を借りる少し前に亡くなった)。すぐ右隣にロヴロ・フォン・マタチッチ氏の名前があり、このユーゴスラビアの指揮者は「重厚な演奏で、ブルックナーを得意とする」と紹介されていました。
その少し後、私はクラシック音楽演奏家たちのエピソード集の本を買いました。NHK交響楽団の名誉指揮者であったマタチッチ氏は、愉快な逸話に事欠かない人のようでした。少年時代はあのウィーン少年合唱団に所属したけれど、指揮者として楽団員を怒鳴り続けているうちに、すっかりガラガラ声になったというのです。そのギャップの話を読んで、子供の私も吹き出すほど笑いました。
早くから興味をそそられる指揮者になった「マタチッチ氏死去」のニュースは、中学3年生の冬休みを送っていた私にも衝撃をもたらしました。まだFMラジオで彼の演奏をエアチェックしたこともないのに、彼の最も得意とした「ブルックナーを聴きたいな」という願いが、私の中に少しずつ芽生え始めました。

ロヴロ・フォン・マタチッチ氏は死の前年、1984年3月に生涯最後の来日公演を行い、名誉指揮者を務めるNHK交響楽団の指揮台に立って、自らの遺言のような演奏会を開きました。1984年3月7日にNHKホールで開かれた「ブルックナー交響曲 第8番 ハ短調」1曲だけのプログラムは、最も盛り上がった演奏会になり、開場前のNHKホールに「ダフ屋」まで出るほどの賑わいだったそうです。
高校時代の私は、とにかく勉強で忙しかったので、長大なブルックナーの交響曲は「聴いて覚える時間の余裕がない」遠い世界でした。学校の中にレコード・コレクターの先生がいらっしゃることを聞き、自分のカセットテープ(メタルテープ)を2本預けて、先生にブルックナーの交響曲第7番と第8番のダビングを依頼しました。第8番は「マタチッチN響の1984年ライブ録音」と決めていましたが、第7番はどの指揮者が録音したかさえ知らず、先生は「世間知らずの高校生」の頼みに戸惑われたことでしょう。
ようやく大学入試が終わり、熾烈な受験勉強から解放された私は、下宿先と実家を往復するバスの道中などでテープを聴き、少しずつブルックナーの交響曲第8番を覚え始めました。

Concert_Hall_Waiting_2  Matacic_Bruckner_Legacy

私がアントン・ブルックナーの交響曲に関心を持ち始めたきっかけは、何かのテレビコマーシャルで第8番の第4楽章冒頭部分に接して、重厚なサウンドにひかれた時でした。ディーゼルエンジンだっけ…?
(手がかり探し:三菱自動車・サイクロンエンジン・1986年放映-どの車種・バージョンか??)
テープを聴き始めてから、しばらくは「どこが良いか分からない」暗中模索の状態でしたが、第3楽章の崇高な美しさに聴き惚れるようになり、やがて第4楽章冒頭部の旋律までたどり着くことができました。ほどなくして、第1楽章の空漠な雰囲気や、第2楽章の無骨な面白さも分かってきました。カセットテープでブルックナーの第8番を聴く時は、A面で第2楽章を聴き終えたら、かなりの長時間を早送りして、それからやっとB面の第3楽章に入るので、相当な手間がかかります。マタチッチ氏の場合、第1・第2楽章(A面)の演奏時間が29分もかからないため、C-90(片面45分)テープを使うと、16分もの早送り時間で待たされました。
数年後にデンオン(日本コロムビア)の「マタチッチの遺産」シリーズで「ブルックナー交響曲 第8番 ハ短調」1984年ライブ録音のCD化が実現し、私もすぐに購入したのですが、LPレコード→メタルテープで聴いた時に比べたら、音質があまりにも貧弱な印象だったのが残念でした。

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ロヴロ・フォン・マタチッチ氏は1899年2月14日、クロアチア北西部にあるスシャクの地で、17世紀からの貴族の家庭に生まれました。彼の生涯中、祖国クロアチアはずっと歴史に翻弄され続け、誕生時はオーストリア=ハンガリー帝国の支配下に置かれ、逝去時は「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」の構成国家でした。
9歳でウィーンへ移ったマタチッチ少年は、やがてウィーン少年合唱団に入団を認められ、変声期に入るまで4年間合唱団員を務めた後、指揮者への道を進み始めました。第2次世界大戦の動乱期には、彼にも多くの困難があり、1954年まで指揮活動を再開できなかったそうです。それ以後の彼は「東側」を代表する名指揮者のひとりとして、東側・西側をまたいで精力的な活動を続けました。

マタチッチ氏とNHK交響楽団の出会いは、1965年にNHKが招聘した「スラブ歌劇」公演で、ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』を指揮した時でした(公演記録)。2度目の来日公演は、1966年末-1967年明けの年末年始に行われ、1967年1月1日にN響から「名誉指揮者」の称号を授与されました。
N響名誉指揮者に就任してから、マタチッチ氏とオーケストラの間の絆はさらに深まり、1975年まで毎年のように日本を訪れて、広範囲なレパートリーを取り上げました。楽団員も聴衆も、マタチッチ氏とともに貴重な時間を過ごし、とりわけブルックナーの交響曲の演奏に深く魅了されました。
ところが、1975年11月-12月のN響定期公演終了後、マタチッチ氏の来日は途絶えました。さすがの巨匠も70歳代後半に入ると、体力の衰えを隠せなくなり、巨体を動かして歩くことさえ困難な状態に陥ったのです。
せめてもう1度、マエストロと一緒に演奏したい-N響からの要請により、マタチッチ氏は1984年3月に9年ぶりの来日公演を行いました。NHKホールに集まった聴衆も「これが最後だ」と意識し、巨匠が用意した3種類のプログラムに、ひときわ熱心に耳を傾けました。
* プログラムA:ブルックナー交響曲 第8番 ハ短調
* プログラムB:ベートーヴェン交響曲 第2番 ニ長調》/マタチッチ作曲《対決の交響曲
* プログラムC:ブラームス交響曲 第1番 ハ短調》/ベートーヴェン交響曲 第7番 イ長調

1984年3月のNHK交響楽団定期公演と、5月の「プラハの春音楽祭」出演を最後に、ロヴロ・フォン・マタチッチ氏は指揮活動を停止し、1985年1月4日にザグレブで85年の生涯を終えました。
巨匠が亡くなってから数年後に、一連の「ユーゴスラビア紛争」が始まり、巨大な社会主義連邦共和国はばらばらに解体してゆきます。1991年に勃発した「クロアチア紛争」により、クロアチアはユーゴスラビアからの独立を宣言し、現在のザグレブは民主主義国家「クロアチア共和国」の首都になりました。

動画サイト内から、1984年3月当時の生放送音源を見つけることができました。最初の5分間に丁寧な解説があって(これに貴重感あり)6分ほど経過した後「ブルックナー交響曲 第8番 ハ短調」第1楽章の演奏が始まります。


(追記) 本ブログの過去記事には「指揮者の命日」に焦点を当てたものが9本あります。
* ヘルベルト・フォン・カラヤン-2010年7月16日。(記事URL
* カール・ベームセルジュ・チェリビダッケ-2010年8月14日。(記事URL
* ジュゼッペ・シノーポリ-2011年4月20日。(記事URL
* カルロス・クライバー-2011年7月13日。(記事URL
* サー・ゲオルグ・ショルティ-2011年9月5日。(記事URL
* 朝比奈隆-2011年12月29日。(記事URL
* ギュンター・ヴァント-2012年2月14日。(記事URL
* カルロ・マリア・ジュリーニ-2012年6月14日。(記事URL
* ヴィルヘルム・フルトヴェングラー-2014年11月30日。(記事URL
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ヴィルヘルム・フルトヴェングラー ~神格化された指揮者~

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クラシック音楽史上最大の名指揮者のひとり、ドイツの巨匠ヴィルヘルム・フルトヴェングラーが68歳で世を去ってから、きょうで「60回目」の節目の命日を迎えます(1886年1月25日-1954年11月30日)。
1922年からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団第3代常任指揮者を務め、ドイツ最大の巨匠として君臨したフルトヴェングラー氏の死去は、まさしくクラシック音楽界における「ひとつの黄金時代の終焉」を意味する出来事でした。ある人物が、次のような匿名の電報を送ったほどです。
«Le roi est mort, vive le roi!» (フランス語:「国王は死んだ、新国王万歳!」の意味)
匿名の電報の送り先はもちろん、オーストリアのヘルベルト・フォン・カラヤン氏でした。

<クラシック音楽指揮者の歴史:以下の4人は「百科事典必須レベル」の重要人物>
* アルトゥーロ・トスカニーニ(イタリア/1867年3月25日-1957年1月16日)
* ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(ドイツ/1886年1月25日-1954年11月30日)
* ヘルベルト・フォン・カラヤン(オーストリア/1908年4月5日-1989年7月16日)
* レナード・バーンスタイン(アメリカ/1918年8月25日-1990年10月14日)

その長い姓から、日本ではしばしば「フルベン」と短縮して呼ばれることが多いのですが、私はどういうわけか「ベングラー」という短縮を愛用してきました。例:「ベングラーはカミサマじゃない」。
フルベン」という呼び方だと、私の連想では「古い弁当」が浮かんできます。何十年も前に世を去った伝説の名指揮者の、古いモノラル録音「古い弁当でないとだめなのかな」。

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私がクラシック音楽ファンを志したのは、カラヤンバーンスタインの2人がまだ健在であり、ステレオ録音のLPレコードで音楽を聴いた時代でした。昔の人であるトスカニーニフルトヴェングラーなどは「伝説の巨匠」として崇められ、とりわけフルトヴェングラーはどのガイドブックでも「神様」扱いされている印象を受けました。大抵の場合、そういう論評を書く音楽評論家たちの文章からは「フルトヴェングラーを理解できない聴き手は、レベルが低俗だ」という“上から目線”の雰囲気が漂っているようで、早くからバーンスタインのリズム感に高揚していた私は「どこが悪い」10代の少女なりの反発心を育んでいました。
フルトヴェングラーはなぜ、そこまで神格化されるのか…」とにかく、どれか1枚はレコードを聴いてみないと「理由」が分からない。それで「没後30周年」の年に、最も有名な『バイロイトの第9』のレコードを買い求め、比較的手頃な参考文献も取り寄せてみました。
バイロイトの第9:1951年7月29日「バイロイト音楽祭」戦後の再開にあたり、開幕演奏会でフルトヴェングラーが指揮した《ベートーヴェン交響曲 第9番 ニ短調》のライブ録音]
レコードの解説書を読みながら、一通り聴いてみたけれど…解説の執筆者と同じような気持ちになれない…この演奏に圧倒されて「音楽の絶対神の荘厳さにひれ伏す」境地に到達しない。やはり私には「ベングラーはどうしても分からない」ままで、それ以上の探究意欲は出ませんでした。

そういうわけで、私は日本人のクラシック音楽愛好家として「肩身が狭い」「居心地が悪い」思いを抱えながら過ごしてきました。“上から目線”型のフルトヴェングラー・ファンとは、できることならあまり付き合いたくない。そんな人よりも「真摯な態度で耳を傾ける本物のカラヤン・ファンの人と、内容の濃い音楽談義を楽しみたい」と願いながら、私はバーンスタイン・ファンの道を進み続けました。

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ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮活動は、モノラル録音の時代にあたり、彼の晩年の時期に発明されたステレオ録音は、本格的な実用化にまで至っていませんでした。生前の彼は「レコード録音」に懐疑的な考え方を抱き、基本的に録音セッションを好まなかったようです。
フルトヴェングラーが生涯中に、どれほどのレパートリーを指揮したかは分かりませんが、彼が最も得意にしたベートーヴェンの交響曲などは、同じ曲を複数回録音した「同曲異演盤」が多く存在します。今なお最も誉れ高い《第9》交響曲などは、有名どころを「演奏の収録場所」で区別しているほどです。
* 『バイロイトの第9』-1951年7月29日、バイロイト音楽祭バイロイト祝祭管弦楽団を指揮。
* 『ルツェルンの第9』-1954年8月22日、ルツェルン音楽祭フィルハーモニア管弦楽団を指揮。巨匠の死の3か月前にライブ収録された。
フルトヴェングラー・ファンへの最初の一歩は、こうした同曲異演盤の略称(通称)を覚え、演奏の特徴(癖)を知ることから始まります。長い年月の間に、いろいろなレコード会社が多種多様な「復刻技術」の開発を行い、フルトヴェングラーの「オリジナル・マスター・テープ」の音質を改善すべく、数限りない復刻盤レコード(CD)を出し続けてきました。そのため『バイロイトの第9』だけでも「どの復刻盤を選べばよいか」という問題が生じ、ファンたちは「同演異盤」の聴き比べに没頭してきました。
モノラル録音時代の「神格化された巨匠フルトヴェングラーでなければ、こんな現象はおそらく起こり得ないでしょう-彼の真価がどうにも分からない私には「古い弁当の食べ比べ」のように見えます…。

フルトヴェングラーは作曲活動にも多大な精力を注ぎ、3曲の交響曲などを書き残しました。本人は自らのことを「指揮をする作曲家」と呼びましたが、彼自身の意気込みとは裏腹に、創作の分野ではあまり良い評価を得られませんでした。
交響曲第2番』(作曲:1944-46年)は、彼自身が好んで演奏したお気に入りの作品で「自作自演」のレコード録音も残されています。この曲の日本初演は、あの朝比奈隆氏と大阪フィルハーモニー交響楽団により、1984年の「没後30周年」記念企画の一環として実現しました。
彼の絶筆作品は『交響曲第3番』(作曲:1951-54年)で、4つの楽章に副題がつけられています。
[第1楽章:宿命/第2楽章:生の脅迫/第3楽章:彼岸/第4楽章:闘いは続く
闘いは続く」と題した最終楽章に、この「指揮をする作曲家」は何を託そうとしたのでしょうか。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは生涯に2度の結婚歴があり、1943年に再婚したエリーザベトさんとともに仲睦まじい晩年を送りました。ヴィルヘルムと11年で死別した後、エリーザベト未亡人は巨匠の「語り部」のような人生を送り、昨年3月までご健在だったそうです(1910年12月20日-2013年3月5日)。
(追記) 本ブログの過去記事には「指揮者の命日」に焦点を当てたものが8本あります。
* ヘルベルト・フォン・カラヤン-2010年7月16日。(記事URL
* カール・ベームセルジュ・チェリビダッケ-2010年8月14日。(記事URL
* ジュゼッペ・シノーポリ-2011年4月20日。(記事URL
* カルロス・クライバー-2011年7月13日。(記事URL
* サー・ゲオルグ・ショルティ-2011年9月5日。(記事URL
* 朝比奈隆-2011年12月29日。(記事URL
* ギュンター・ヴァント-2012年2月14日。(記事URL
* カルロ・マリア・ジュリーニ-2012年6月14日。(記事URL

春の稲妻とともに去りぬ

1827年3月26日-「楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが、波瀾と輝きに彩られた56年3か月の生涯を終えた日。巨匠の死因は肝硬変でした。
日本史でいえば、まだ江戸時代後期の頃。ベートーヴェンの生没年[1770年-1827年]は、日本の元号に置き換えると「明和7年-文政10年」になります。

前人未到の金字塔「交響曲第9番 ニ短調 作品125」(第9交響曲)の初演を、1824年5月7日にウィーンで行った後、晩年のベートーヴェンの創作活動は「弦楽四重奏曲」に向けられて行きます。容赦なく進行した聴覚障害により、作曲が不可能になる音楽ジャンルも出てきました。
22歳でウィーンに出てから、数知れぬほどの引っ越しを重ねてきたベートーヴェンは、1825年10月に最後の住居「黒スペイン館」3階の部屋に落ち着きました。この建物の近くに、ボン時代からの親友だったシュテファン・フォン・ブロイニングの一家が住んでいたのです。ベートーヴェン黒スペイン館の家に転居した時、シュテファンには12歳のひとり息子ゲルハルトがいて、ベートーヴェンゲルハルトを「ズボンのボタン」と呼んで可愛がるようになりました。

1826年8月、バーデン(バーデン・バイ・ウィーン)で静養していたベートーヴェンのもとに、衝撃的な知らせが届きました。彼が後見人を引き受けた甥のカールが、学業の問題などで悩んだ果てに、バーデン近郊の丘でピストル自殺を図ったのです。甥のカールといえば、作曲家の弟カールが1815年11月15日に死去した後、彼の実母のヨハンナと伯父のベートーヴェンが、後見資格をめぐって長い法廷闘争をした問題で有名です。
一命を取り留めたカールは、ウィーンの市民病院で1か月半の入院生活を送ります。そこへ末の弟ヨハンが訪れて、自分の屋敷があるグナイクセンドルフで、一緒に静養することを勧めました。こうして1826年9月28日、作曲家は甥とともに、ウィーンからグナイクセンドルフへ向かいました。
秋のグナイクセンドルフは、風光明媚な自然風景に囲まれていたので、健康状態の衰えが進行してきたベートーヴェンを大いに喜ばせました。この屋敷での暮らしは、ヨハンの妻テレーゼとの関係が問題になりました。ヨハンテレーゼが1812年に結婚した時、ベートーヴェンが猛反対したからです(テレーゼに私生児の連れ子がいたため)。2人の接触を減らすために、弟は兄の身辺の世話を、自分の葡萄農園で働いていた青年に任せるなど、できる限りの気配りをしました。
さまざまな角度からの文献を見ると、人間としてのベートーヴェンは、一家の長男としての意識を強く持ちすぎたためか、2人の弟たちの私生活・結婚生活にまで、過度に干渉する一面もあったようです。

瞬く間に秋の日は過ぎ去って、厳しい冬が始まり、ベートーヴェンがグナイクセンドルフからウィーンへ戻る時が来ました。駅馬車を見つける余裕もなく「幌のない牛乳運搬馬車」に乗り、途中で1泊した安宿の部屋には暖房設備がなく、ベートーヴェンは冬用の服を持参していなかったために、この道中で彼の病状は致命的に悪化します。こうしてベートーヴェンは4か月の闘病生活に入り、もはや病床から起き上がれなくなりました。

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病床についたベートーヴェンのために、彼と親しい医師たちがさまざまな治療法を試み、4度の腹水除去手術に加えて、他の対症療法も行われましたが、さっぱり効果はありませんでした。いくらか気分の良い日には、ベートーヴェンは楽譜出版社や音楽家の友人たちなどに手紙を書いたり、ロンドンの楽器製作者から贈られた「ヘンデル全集」の楽譜を読んだりしました。隣家に住む親友シュテファン・フォン・ブロイニングの一家や、自称“無給秘書”のアントン・シンドラーなどが、巨匠の身辺の世話を行っていました。シュテファンの息子で、ベートーヴェンからは「ズボンのボタン」と呼ばれたゲルハルトが、病床に食事などを運んだり、たくさんの雑用を手伝いました。従来の研究文献ではあまり触れられなかった点ですが、薬剤師になった末の弟ヨハンも、長兄の看病で中心的な役割を果たしたようです。自殺未遂から回復した甥のカールは、本人の希望で軍隊に入ることが決まり、1827年1月2日にボヘミアのイーグラウへ出発しました。
ベートーヴェンの「黒スペイン館」の家には、連日多くの見舞客が訪れました。作曲家の同僚たちもたくさん見舞にやってきて、彼に憧れ続けた後輩のフランツ・シューベルト、若き日のベートーヴェンのライバルであったヨハン・ネポムク・フンメルや、シューベルトと親しい作曲家のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーなどが病床に足を運びました。

1827年3月に入り、死期を自覚したベートーヴェンは、最後の身辺整理を行いました。3月23日には遺言書に署名を行い「甥カールを唯一の相続人とする」と書き記しました。
ベートーヴェンは自分の最近作の楽譜出版に携わっていた「ショット社」に、大好物の名産ワインを送ってほしいと頼んでいました。ワインが到着したのは、3月24日のことでした。その時「残念、残念、遅すぎたよ」とつぶやいたのが、ベートーヴェンの辞世の言葉になりました。
3月24日夜からベートーヴェンは昏睡状態に陥り、秘書役のシンドラーシュテファンゲルハルトのブロイニング父子、ヨハンテレーゼの弟夫婦がつきっきりで様子を見ていました。最後の日、3月26日の午後には見舞客として、作曲家のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーが訪問しました。
午後3時を過ぎて、シュテファンシンドラーヨハンは葬儀のための墓地を探しに出かけ、ゲルハルトは自宅へ帰ったので、ベートーヴェンの部屋に残ったのは、見舞客のヒュッテンブレンナーと弟の妻テレーゼの2人だけになりました。そこへ突然、激しい雷雨が降り出し、稲妻が鳴りました。ヒュッテンブレンナーの描写によれば「ベートーヴェンは目を開け、右手を上げて…」手を下ろして息絶えたとのことです。1827年3月26日、午後5時45分頃の最後でした。
シュテファンゲルハルトシンドラーヨハンが席を外した時に訪れた最後の瞬間。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの臨終に立ち会ったのは、見舞客のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーと、生前は仲が悪かった義理の妹テレーゼの2人だけでした。

死の翌日、3月27日に遺体の解剖が行われ、聴覚器官が詳細に調べられました。3月29日に行われたベートーヴェンの葬儀には、2万人を超える人たちが集まり、学校も休みになりました。
シュテファンシンドラーを中心に、ベートーヴェンの遺品の整理が行われ、部屋の戸棚にあった秘密の引き出しの中から、甥カールに遺贈する7枚の銀行株券に加えて、有名な「不滅の恋人」宛ての3通の手紙が見つかりました。
大変残念なことに、シュテファンが心労の蓄積のためか、ベートーヴェンの死から2か月後の1827年6月4日に52歳で亡くなりました。まだ14歳のひとり息子ゲルハルトと、膨大な遺品整理作業を残して。後を引き継いだアントン・シンドラーは、1840年に最初の伝記を著述しましたが、筆談帳などの遺品を自らの手で破棄してしまったそうです。

楽聖ベートーヴェンの死から18年後、1845年に生誕地のボンで記念像が立てられ、除幕式の演説者はこのように述べました。「彼の墓前で泣く妻もなければ、息子も娘もない、だが世界が泣いた」と。

<本記事の参考文献>
1.平野昭著『ベートーヴェン』(音楽之友社「作曲家・人と作品」シリーズ、2012年7月刊)-最新の日本語研究文献。
2.大築邦雄著『ベートーヴェン』(音楽之友社「大音楽家・人と作品」シリーズ、1962年1月刊)-半世紀前の古書であるが、信頼性の高い名著として愛読。
3.武川寛海著『音楽史の休日』『続・音楽史の休日』(音楽之友社、1972年11月・1974年6月刊)-音楽家のエピソード集。著者はベートーヴェン研究家で、ゴダイゴタケカワユキヒデ氏の父親でもある。

ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 作品92>-第4楽章 (指揮:カルロス・クライバー

クラウディオ・アバド

2014年1月20日の夜、私はすぐ次のブログ記事のネタに困り、やけになって ♪おおさむこさむ~♪ の鼻歌をやっていました。ニュースサイトを見ていたら、一夜のうちに3人続けて、一時代を築いた大音楽家たちのお悔やみが入ってきました。
* ファーギー・フレデリクセン氏(1951年5月15日-2014年1月18日)…アメリカのバンド「TOTO」に所属していたボーカリスト。
* クラウディオ・アバド氏(1933年6月26日-2014年1月20日)…イタリアの指揮者。
* 佐久間正英氏(1952年3月1日-2014年1月16日)…日本の音楽プロデューサー。
ニュースが入った順番。亡くなられた日付順ではありません)

あの無敵の「クラシック音楽の帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤン氏の後を引き継いで、世界最高峰の名門ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督を務めるなど、世界各地のオーケストラから絶大な信頼を集めたイタリアの巨匠指揮者。昨年10月に予定されていた、ルツェルン祝祭管弦楽団との7年ぶりの来日公演が指揮者の「健康上の理由」で中止されるなど、近年は体調の衰えが憂慮されていました。
クラウディオ・アバド:1933年6月26日生まれ-2014年1月20日死去、80歳没]

クラウディオ・アバド氏は1933年6月26日、イタリア・ミラノの音楽一家に生まれました。父親はバイオリニストでミラノ音楽院教授、母親はピアニストで児童文学作家という恵まれた環境の中、いつも音楽に囲まれて育った少年は「音楽の魔法に魅せられて」7歳から本格的な勉強を始めました。彼は1960年代から指揮者として世界的に認められ、1968年からミラノ・スカラ座の首席指揮者に就任し、イタリアを代表する名指揮者としての評価を確立して行きます。世界各地で信頼を集めた彼の指揮活動は、ミラノ・スカラ座音楽監督(1968年-1986年)ロンドン交響楽団首席指揮者(1979年-1988年)ウィーン国立歌劇場音楽監督(1986年-1991年)ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督(1990年-2002年)のみならず、多数の歌劇場や管弦楽団で膨大な実績を残しました。

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ポストカラヤンカラヤンの後継者は誰だ-帝王がまだベルリン・フィルハーモニー管弦楽団音楽監督在職中のうちから、クラシック音楽ファンたちはこの話題で盛り上がっていました。1980年代初め頃から指揮者とオーケストラの関係が険悪になり、カラヤン氏の健康状態にも著しい衰えが見えてきたのです。ついに1989年4月24日、81歳になったカラヤン氏は「健康上の理由により」自発的にベルリン・フィルの音楽監督辞任表明を行い、1955年から務めてきた「終身音楽監督」の座を手放しました。すぐ3か月後、1989年7月16日に無敵の帝王は生涯の終わりを迎え、クラシック音楽界におけるひとつの黄金時代に終止符が打たれました。
カラヤン氏の死去により、ベルリン・フィルは後継者の選出を行い、当時56歳のクラウディオ・アバド氏が第5代目の音楽監督に指名されました。アバド氏の就任後、ベルリン・フィルは「終身制」を廃止します。こうして「ポストカラヤンカラヤンの新時代が始まり、アバド氏は1990年から2002年まで、12年間世界最高峰の要職を務めました。
アバド氏の辞任後は、イギリス人指揮者のサー・サイモン・ラトル氏がベルリン・フィル音楽監督の座を引き継ぎましたが、ラトル氏も2018年限りでの退任を表明しています(2013年1月報道)。

アバド氏は長く胃癌を患い、2000年に胃の全摘手術を受けたことがあります。2002年にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のポストを退いた後も、彼は全力で指揮活動を続け、2003年に第15回「高松宮殿下記念世界文化賞」音楽部門の表彰を受けました。
2013年10月、80歳を迎えたアバド氏は「ルツェルン・フェスティバル・イン・東京2006」以来7年ぶりの来日公演計画を入れ、ルツェルン祝祭管弦楽団を率いて東京・サントリーホールの4公演と、宮城県松島町で開かれる「ルツェルン・フェスティバル アーク・ノヴァ松島2013」を指揮する予定でした。東日本大震災の被災地となった「日本三景」松島には、新しい可動式のコンサートホール「アーク・ノヴァ」が建設され、アバド氏は10月12日の松島公演を心待ちにしていました。ところが、巨匠は9月に「健康上の理由」による公演中止を発表し、もう2度と指揮台に立てないまま、2014年1月20日の朝8時半(現地時間)にイタリア・ボローニャの自宅で息を引き取りました。

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私の手元には、アバド氏のCDコレクションは少なく、総計4枚あるだけでした。交響曲はブルックナーの第4番『ロマンティック』と、ブラームスの第1番ぐらい。ブラームスの交響曲第1番は、ベルリン・フィル音楽監督就任直後の全集録音で「C-90」カセットテープの片面に入れて、よく聴いた演奏です。
自分では持っていないのですが、アバド氏は人気の高い名作オペラだけでなく、知名度が低くて埋もれたオペラの発掘録音にも力を入れていました。ロッシーニの歌劇『ランスへの旅』(ヨーロッパ室内管弦楽団を指揮)の全曲録音は大成功を収め、他の埋もれたロッシーニ・オペラの見直しが急速に進みました。目覚ましい再評価の動きは「ロッシーニ・ルネッサンス」と呼ばれるようになり、アバド氏はその先頭に立った指揮者としても、絶大な業績を残しました。
ロッシーニ以外では、シューベルトのオペラ『フィエラブラス』の蘇演が記憶に残っています。ドイツ・グラモフォン社の広告で見ただけですが、オペラ指揮者としての強い信念に驚嘆したものです。

クラウディオ・アバド氏は1973年にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を率いて初来日し、日本公演も数多く行いました。詳細な記録については、梶本音楽事務所のサイトにリンクしておきます。
巨匠の生涯最後の心残りが、東日本大震災被災地を訪問できなかった日本公演になるとは。長い闘病生活の終わりが、ベルリン・フィルの前任者であったヘルベルト・フォン・カラヤン氏の「没後25周年」節目の年に訪れたとは。2014年もまた、世界の音楽の歴史を、しみじみと考える年になりそうです。

カルロ・マリア・ジュリーニ

2005年6月14日。クラシック音楽指揮者として、功成り名遂げたイタリアの名匠が、91歳の高齢で旅立って行きました。その人とは、カルロ・マリア・ジュリーニ氏です(1914年5月9日-2005年6月14日)。
ジュリーニ氏と同年代の指揮者たちは、カリスマ的な個性を持ち、今なお多くの聴き手を持っている歴史的な巨匠がたくさんいました。「クラシック音楽の帝王」と呼ばれたオーストリアの指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン氏は6歳年上で(1908年生まれ)アメリカ最大の天才音楽家、レナード・バーンスタイン氏は4歳年下になります(1918年生まれ)。ジュリーニ氏と同じ1914年生まれからも、偉大な作曲家や演奏家が多く出ました。その世代の中にあって、ジュリーニ氏は84歳まで指揮台に立ち続け、1998年に指揮活動から引退した後も、重鎮として音楽界の動きを見守り続けたのです。

私はちょうどその頃、新聞のニュース全般にあまり興味がなく、触り始めて間もないインターネットのサイト探しに夢中でした。ジュリーニ氏が亡くなったニュースの時は、食器を割って壊した勢いで、右手の人差し指を縫うけがをしてしまい、傷の手当てで近くの病院に通っていました。そんなわけで、すぐ前日に伝えられた重大ニュース-2005年6月13日-あの出来事にも気づきませんでした。
それはあの「マイケル・ジャクソン裁判」が「完全無罪」の評決で終了した日。少年への性的虐待容疑で告発されたスーパースター歌手、マイケル・ジャクソンさんの裁判が終結したのです。
ジャクソンさんに起きた出来事を知ったのは、彼の没後になってから(生前は全く関心なし)。私自身も趣味や嗜好の変化を経験し、10代の時に最も熱中した、クラシック音楽指揮者の動向への関心が薄れていました。イタリアの巨匠指揮者カルロ・マリア・ジュリーニ氏が「マイケル・ジャクソン裁判無罪評決のすぐ翌日に」亡くなったとは-それに気づいたのは、ごく最近のことです。

私の交響曲コレクションの中に、ジュリーニ氏のCDは2枚しかありません。1980年代にウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した、ブルックナーの交響曲第7番と第8番です。
どちらも大学生時代の後半に聴きまくったもので、とりわけ交響曲第8番は「ノヴァーク版」の楽譜を頭で覚えるための“ヘビーローテーション”でした。こうしてノヴァーク版をきちんと修得してから、半年ほど後に「ハース版」を採用した演奏のCDを買う計画を立てました。(参考:過去記事
ジュリーニ氏の指揮については、当時のクラシック音楽雑誌の批評筋は「堅固な構成力が揺るがない」と絶賛ずくめでした。私もその点には同意できましたが、回数を重ねて聴くうちに「柔軟性に乏しい」正反対の感覚が強くなってきて、最近はほとんどこのCDをかけなくなりました。

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私がクラシック音楽に熱中し始めた頃、カルロ・マリア・ジュリーニ氏はアメリカの名門ロサンゼルス・フィルハーモニックで音楽監督を務めていました。在任期間は1978年-84年だったそうで、私が中学生の時にこのポジションを退いたわけです。何年も後に知ったのですが、ジュリーニ氏がロサンゼルス・フィルハーモニック音楽監督を辞任した理由は「病に倒れた妻の看護に専念するため」でした。
専門ファンサイト「ozio elevato」の年表によれば、ジュリーニ氏は他に類を見ないほど、温厚な家族思いの人でした。1963年にシカゴ交響楽団から音楽監督就任の要請を受けた時は「3人の息子たちの教育を重視するため」申し出を断ったそうです。夫人の看護に専念するため、1984年にロサンゼルス・フィルハーモニックの音楽監督を辞任した後、ジュリーニ氏は演奏活動をヨーロッパに限定するようになりました。最愛の妻に先立たれたのは、1995年だったそうです。1998年10月に84歳で指揮活動から引退した後、ジュリーニ氏はミラノの自宅で静かな隠居生活を送りました。
同じ年表によれば、カルロ・マリア・ジュリーニ氏は生涯中に3度、1960年・1975年・1982年に来日公演を行ったことがあります。

たった2枚しかCDを買わず、熱心なファンにはならなかったけど「尊敬できる指揮者」の印象があったカルロ・マリア・ジュリーニ氏。大往生から4年後、旅立ちの「すぐ前日の出来事」を知るとは…。
(追記) 本ブログの過去記事には「指揮者の命日」に焦点を当てたものが7本あります。
* ヘルベルト・フォン・カラヤン-2010年7月16日。(記事URL
* カール・ベームセルジュ・チェリビダッケ-2010年8月14日。(記事URL
* ジュゼッペ・シノーポリ-2011年4月20日。(記事URL
* カルロス・クライバー-2011年7月13日。(記事URL
* サー・ゲオルグ・ショルティ-2011年9月5日。(記事URL
* 朝比奈隆-2011年12月29日。(記事URL
* ギュンター・ヴァント-2012年2月14日。(記事URL
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とにかく音楽が大好き。クラシック・ポピュラーのCDで自室を埋め尽くしています。

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