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いい日旅立ち

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いい日旅立ち』 (歌:山口百恵/作詞・作曲:谷村新司) <歌詞URL

♪あゝ日本のどこかに 私を待ってる人がいる…♪
山口百恵さんの人気曲『いい日旅立ち』は、1978年11月から国鉄(日本国有鉄道)が開始したキャンペーンのコマーシャルソングでした。国鉄は1987年に分割・民営化を実施し、現在の「JR」に変わりました。
国鉄からJRへ-さまざまな変化がありました。大規模な人員削減が行われたため、私が高校への電車通学に利用していたローカル線は「無人駅」が増えていきます。駅構内の管理が行き届かず、荒れ野原同然の状態になった駅も少なからずありました。

昨年12月4日の東北新幹線全線開業に続いて、ことし3月12日には九州新幹線が待望の全線開業の日を迎えました。これまでは[鹿児島中央⇔新八代]間の短い路線でしたが、山陽新幹線の終点である博多駅と新八代駅の間の連結が完成し、晴れて[鹿児島中央⇔博多]間の全区間開通が実現しました。
ところが《青森⇔鹿児島が新幹線でつながる》前日、3月11日に起きた東日本大震災により、東北地方の鉄道路線も甚大な被害を受けました。巨大地震と津波で全線運休になった東北新幹線は、被害の比較的少なかった区間から、徐々に復旧作業を進めましたが、その途中にも何度かの余震がありました。ようやく4月29日に東北新幹線の全面復旧が実現し、鉄道が本来の活気を取り戻しました。震災による損傷が最も激しく、復旧が遅れた区間は[仙台⇔一ノ関]間でした。

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山口百恵さんの歌手活動は、1973年から1980年までの足かけ8年間に及びました。彼女をリアルタイムで味わうには、私は「生まれるのが少し遅すぎた」年代に入ります。
1977年にシンガー・ソングライターのさだまさしさんから提供を受けた『秋桜』(コスモス)は、私自身がまだ小さすぎたので、残念ながらリアルタイムでは覚えられませんでした。(過去記事)1978年から歌番組「ザ・ベストテン」が始まり、百恵さんも大部分の曲をベストテンの上位にランクインさせます。私の場合、1978年に最も印象的だったヒット曲は『プレイバック Part2』でした。
いい日旅立ち』の歌は、バンド「アリス」のメンバーであったシンガー・ソングライター谷村新司さんからの初提供曲としても話題を集めました。百恵さんと谷村さんの初コラボレーション(コラボ)は大成功を収め、彼女はこの曲で自身初の「ザ・ベストテン1位」を獲得しました。[資料

秋桜』をリアルタイムで聴けず、『プレイバック Part2』で山口百恵さんの歌を知った私。『いい日旅立ち』の第一印象は「百恵さん、こんなに情緒豊かな曲も歌えるんだ~」という驚嘆の念でした。
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25年前の衝撃・その2

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1986年4月26日-あの恐ろしい悪夢の日から、きょうで25年。旧ソビエト連邦で起きた、チェルノブイリ原子力発電所爆発事故の記念日です。原発事故史上最悪の悲劇を生んだチェルノブイリは、1991年のソ連崩壊後はウクライナ領になりました。
あれから25年後-2011年3月11日に東日本大震災が発生し、巨大地震と津波の影響で、福島第一原子力発電所が爆発事故を起こしました。事故収束への道のりは今なお遠く、東京電力の作業員たちは命懸けの仕事を不眠不休状態で続けていらっしゃいます。フクシマの事故は、国際原子力事象評価尺度による「レベル7」(深刻な事故)と判定され、あのチェルノブイリ級の悲劇として国際社会の多大な関心を集めています。
(本記事の題名が「その2」となっている:「その1」に相当する出来事はこちら

チェルノブイリ原発事故から2年後の1988年、日本のポピュラー音楽界においても原発に関する問題提起が行われました。ロックバンド「RCサクセション」のアルバム『カバーズ』は、リーダーの忌野清志郎さんが洋楽のスタンダード・ナンバーに日本語歌詞をつけたカバーアルバムです。中でも7曲目『サマータイム・ブルース』(原曲:エディ・コクラン)と5曲目『ラヴ・ミー・テンダー』(原曲:エルヴィス・プレスリー)が、あからさまに「反核・反原発」を打ち出した歌詞だったことから、最初はアルバムの「発売中止騒動」が起きたほどです。当時のファンの後押しを受け、終戦記念日の1988年8月15日にリリースが実現しました。
Summertime Blues》の原作者エディ・コクラン(1938年10月3日-1960年4月17日)は「ロックンロール」黎明期に活躍したロカビリー奏者でしたが、イギリス演奏旅行中のタクシー事故により、わずか21歳の若さで亡くなった人です。

サマータイム・ブルース』 (日本語詞:忌野清志郎) <歌詞URL
(Songwriters: Eddie Cochran, Jerry Capehart) <原詩URL


4月7日、シンガー・ソングライターの斉藤和義さんが自分の曲『ずっと好きだった』の替え歌を披露して大反響を呼びました。話題の“新・反原発ソング”とは、原作者本人による替え歌『ずっとウソだった』です。
原曲『ずっと好きだった』は昨年4月に出たばかりの曲で、資生堂の化粧品「IN&ON」(インアンドオン)のコマーシャルソングとして書かれ、2010年のロングヒット作になりました。(BARKS
問題の替え歌の冒頭。♪この国を歩けば 原発が54基/教科書もCMも 言ってたよ「安全です」…♪
(替え歌の歌詞を書き出したブログ記事も多数ありますが、ここではあえてリンク貼りをいたしません。)

ずっとウソだった』←『ずっと好きだった』 (作詞・作曲:斉藤和義) <歌詞URL:原曲


最後はロックバンド「THE BLUE HEARTS」(ザ・ブルーハーツ)の『チェルノブイリ』。これは忌野清志郎さんの日本語詞による『サマータイム・ブルース』と同じく、事故から2年後の1988年に書かれた作品です。そのままの題名をつけて ♪チェルノブイリには行きたくねぇ…♪ と繰り返し訴えます。

チェルノブイリ』 (歌:THE BLUE HEARTS/作詞・作曲:真島昌利) <歌詞URL

忘れな草をあなたに

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忘れな草をあなたに』 (作詞・木下龍太郎/作曲・江口浩司) <歌詞URL

勿忘草(わすれなぐさ)-どこか寂しげな雰囲気が漂う、水色の愛らしい花。この名称の由来は、古くからドイツで語られてきた有名な悲恋伝説とされています。
(昔のこと、騎士ルドルフが、恋人のベルタと一緒にドナウ川のほとりを散歩していた。川辺に咲く小さな青い花を見つけ、ベルタのために花を摘み取ろうとして、ルドルフは急流に呑み込まれた。騎士はその花束を岸辺に投げて「私を忘れないでください」と言い残し、川の中に消えて行った。)
日本語で「ワスレナグサ」の訳語が当てられたのは、1905年(明治38年)だったそうです。

日本の叙情歌の名作『忘れな草をあなたに』は、最初は6人編成による女声重唱合唱団「ヴォーチェ・アンジェリカ」の吹き込みにより、1963年8月にキングレコードから発売されました。その後、1965年に公開された日活映画「悲しき別れの歌」の主題歌になり、梓みちよさん・倍賞千恵子さん・菅原洋一さんなどの歌唱を通して広まりました。(エムズの片割れ二木紘三のうた物語
いつものように作者のプロフィールを調べたら、作詞者の木下龍太郎氏は2008年9月22日、作曲者の江口浩司氏は2010年1月23日に亡くなられたことが分かりました。江口浩司氏は『憧れのハワイ航路』などで有名な作曲家・江口夜詩氏(1903年-1978年)の長男であり、父親の反対を押し切って、音楽大学で作曲を勉強されたそうです。もしかしたら作者のお2人も「私たちを忘れないでください」と言い残して行ったのでしょうか。

4月25日-きょう19回目の命日を迎える尾崎豊さんも「わすれな草」の歌を残しています。英語で『Forget-me-not』と名づけられた歌は、3枚目のアルバム「壊れた扉から」(1985年11月28日発売)の第3曲に収められたもので、彼が10歳代で過ごした最後の日(20歳誕生日の前日)に送り出されました。
2011年3月21日にドキュメンタリードラマ「風の少年 ~尾崎豊 永遠の伝説~」がテレビ東京系列で放映されるなど、彼の音楽は今なお多くの人たちに聴き継がれています。(番組公式サイト

Forget-me-not』 (作詞・作曲/尾崎豊) <歌詞URL

すべての人の心に花を

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花~すべての人の心に花を~』 (作詞・作曲/喜納昌吉) <歌詞URL:12

いまや「沖縄」を代表する歌として定着した『花~すべての人の心に花を~』。原作者の喜納昌吉(きな・しょうきち)氏は、早くから音楽家と政治家の2つの世界で精力的な活動を続けてきました。現在は民主党沖縄県連代表の地位にあり、2004年-2010年の1期にわたって参議院議員を務めたこともあります。彼の公式サイトのトップページには「すべての武器を楽器に」のモットーが掲げられています。
音楽家としての彼は「喜納昌吉&チャンプルーズ」のリーダーであり、『ハイサイおじさん』や『花~すべての人の心に花を~』などの作詞・作曲で知られるようになりました。ところが『すべての人の心に花を』については、1980年の発表当時はさほどヒットせず、はるか後年になってから、他の歌手たちのカバーで広く知られるようになったそうです。
歌の知名度を大きく高めたのは、1990年に女性歌手のおおたか静流(しずる)さんがデビュー曲として歌った「AXIA」カセットテープのコマーシャルソングでした。それ以来、この曲は数多くの歌手たちの手でカバーされるようになり、今では「沖縄の歌」として幅広く知られています。動画サイトでは、原作者・喜納昌吉氏と同じ沖縄県出身の歌手、夏川りみさんの歌唱版も高い人気があります。

もしも発表当時の1980年、リアルタイムでヒットチャートの上位を走ったり、人気音楽番組などで盛んに取り上げられていたなら。小学校5年生の私は、ここまで異色の雰囲気の名作を聴き逃さなかったのでは。そんなタイムスリップ型の想像を巡らしてみました。
よく言われることですが「ヒット曲は時の運」だし、全体的に“のんきな”雰囲気が漂っていた昭和最後期の時代には『花~すべての人の心に花を~』はリアルタイムでのヒットは難しかったのかもしれません。

THEY DON'T CARE ABOUT US

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最近の地震関連ニュースを読むと、被災者の方や各方面の関係者の方から、政府の対応が十分行き届いていないことへの怒りが感じ取れます。新聞やネットニュースの読者から見ても「行き当たりばったり」の印象が強くなる一方ですから、直接振り回される人たちのいら立ちはどれほどでしょう。あの悪夢の日から早くも1か月半の時間が経過し、みんな心身の疲労の蓄積が限界を超えている。その思いをどこに向ければよいのか。

They Don't Care About Us』(ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス)-マイケル・ジャクソンさんが1995年に発表したアルバム「HIStory」の第2曲で、彼自身の単独作詞・作曲によるものです。これは「誰も自分たちを気にかけてくれない」という意味で、とりわけ政府の歴史に対する「虐げられてきた者たちの怒り」の歌です。あまりの激烈な内容ゆえに、発表当時は歌詞と公式ショートフィルムの両方で大論争を呼び起こした作品として知られています。
歌詞の第2連に「受容不可能な語句がある」として抗議を受けたり(本人はそこを書き直して、録音のやり直しに踏み切った)2種類制作したショートフィルムのうち「プリズン・バージョン」(刑務所版)が実際の場面を多数用いたことで放送禁止扱いを受けるなど、この曲も大変な目に遭わされました。
公式ショートフィルムを2種類制作したほどですから、ジャクソンさんが『They Don't Care About Us』に取り組んだ時の、尋常ならぬ意気込みがひしひしと伝わってきます。彼がこの曲で選んだ調性は「ニ短調」(フラット1つ、D-minor)であり、これほどの激情を表現するには「この調以外は考えられない」でしょう。

They Don't Care About Us』が大きな注目を浴びたのは、マイケル・ジャクソンさんが2009年6月25日に突然の最期を迎えた直後、7月2日に初公開された約1分40秒間の映像でした。7月13日に開幕する予定だった50回のロンドン公演「THIS IS IT」のリハーサル映像で、亡くなる2日前の6月23日にロサンゼルスの「ステイプルズ・センター」で撮影されたものです。これがきっかけとなり、ジャクソンさんが残して行った最大の「プロテストソング」は一気に世界的な知名度を高めました。放送禁止扱いの憂き目に遭った「プリズン・バージョン」の映像も、2010年11月に発売された公式ショートフィルム全集『MICHAEL JACKSON'S VISION』において、ようやく初のDVD収録が実現しました。

«They Don't Care About Us»
(Written and Composed by Michael Jackson) <歌詞URL日本語訳

1.プリズン・バージョン (論争を呼び、放送禁止扱いを受けたもの)


2.ブラジル・バージョン (長い間、こちらしか一般視聴できなかった)

ジュゼッペ・シノーポリ

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今年の春は「没後10周年」を迎える音楽家が多く、その豪華な顔触れに驚かされます。
* 4月7日並木路子(1921年9月30日-2001年4月7日)-日本の女性歌手。『リンゴの唄』で有名。
* 4月14日:三波春夫(1923年7月19日-2001年4月14日)-日本の男性歌手。
* 4月20日ジュゼッペ・シノーポリ(1946年11月2日-2001年4月20日)-イタリアの指揮者。
* 5月17日:團伊玖磨(1924年4月7日-2001年5月17日)-日本の作曲家。
イタリアの名指揮者であったジュゼッペ・シノーポリ氏は、2001年4月20日に「ベルリン・ドイツ・オペラ」でヴェルディの歌劇『アイーダ』を指揮中、第3幕の途中で心筋梗塞を起こし、指揮台の上に倒れて亡くなりました。まだ54歳5か月という若さでした。
あれほど精力的に活動した人気指揮者であったのに、10年の歳月が流れたら、日本語のオンライン資料が非常に少なくなっていました。(参照資料:123

クラシック音楽指揮者の中でも、ジュゼッペ・シノーポリ氏ほどユニークな背景を持つ巨匠(マエストロ)は少ないでしょう。彼はプロ音楽家の勉強と併行して、精神医学の博士号まで取得した人であり、生涯を通じて広範囲の学問に深い関心を保ち続けました。指揮活動のみならず、現代音楽の作曲家としても名声を築きました。
私が初めてシノーポリ氏の存在を知ったのは、たしか中学生ぐらいの頃、1983年に録音された「シューマン交響曲第2番 ハ長調 作品61」のレコードでした。作曲家ロベルト・シューマン(1810年-1856年)が精神疾患患者であり、病状の思わしくなかった時期に書かれた管弦楽作品であることから、シノーポリ氏による斬新な解釈は“精神科医が見た精神病者の音楽”としてクラシック音楽ファンの注目を集めました。シノーポリ氏は1990年代に「シューマン:交響曲全集」を録音したので、第2番は新旧2種類の盤が残されたことになります。オーケストラは第2番の旧録音がウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で、後年の交響曲全集はシュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立管弦楽団)でした。

シノーポリ氏は54年の生涯中に何度も来日しましたが、私の印象に強く残った出来事は、1992年3月のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団創立150周年記念「ワールド・ツアー」で“代役の代役”に選ばれたことです。もともとはカルロス・クライバー氏が日本公演を指揮する予定でしたが“案の定”(?)直前にキャンセルとなり、急遽クライバー氏の代役に指名されたのがシノーポリ氏でした。
ところが、この話にはもっと前からのアクシデントがありました。最初の計画ではレナード・バーンスタイン氏が担当する予定だったのですが、ワールド・ツアーの1年半も前、1990年10月14日にバーンスタイン氏が亡くなったことにより、クライバー氏に2つの仕事が入ってきたわけです。ひとつは1992年1月1日のウィーン・フィル「ニューイヤー・コンサート」で、もうひとつが3月の創立150周年記念ワールド・ツアーでした。期待感を奪われたバーンスタイン・ファンの私が、この経緯を忘れるわけがないでしょう!

イタリアはオペラの宝庫として、歴史に名を残す作曲家や演奏家を多数輩出してきました。ジュゼッペ・シノーポリ氏も傑出したオペラ指揮者として、シュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立歌劇場の専属管弦楽団)やベルリン・ドイツ・オペラなどで音楽監督を務め、亡くなった時はシュターツカペレ・ドレスデンで首席指揮者の地位にありました。彼が指揮台の上に崩れ落ちたベルリン・ドイツ・オペラのコンサートは、2つの意味で特別な場所であり、聴衆は彼の突然の最期に「数奇なる運命」を見て取りました。
ひとつは「ヴェルディ没後100周年」の記念行事であったこと。イタリアが誇るオペラ作曲家、ジュゼッペ・ヴェルディ(1813年10月10日-1901年1月27日)にまつわるイベントが、世界各地で開かれていました。
もうひとつは、ベルリン・ドイツ・オペラシノーポリ氏と対立関係にあったオペラ演出家、ゲッツ・フリードリヒ氏(Götz Friedrich, 1930年8月4日-2000年12月12日)の追悼演奏会の最中であったこと。シノーポリ氏はコンサートのプログラムに、かつての宿敵であったフリードリヒ氏への追悼文を書き記したそうです。
何ということでしょう-あれほどの名指揮者が、輝き盛りの時期に志半ばで倒れたとは。あの衝撃のニュースから10年の歳月が流れ、クラシック音楽界も活気が落ちてきたように感じられます。

この道

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この道』 (作詞・北原白秋/作曲・山田耕筰) <歌詞URL:12

1.この道はいつか来た道/ああ そうだよ/あかしやの花が咲いてる
2.あの丘はいつか見た丘/ああ そうだよ/ほら 白い時計台だよ
3.この道はいつか来た道/ああ そうだよ/お母さまと馬車で行つたよ
4.あの雲もいつか見た雲/ああ そうだよ/山査子(さんざし)の枝も垂れてる

道を歩きながら、はるか遠い昔に見覚えのある風景に気づき、懐かしさでしばらく立ち止まる。北原白秋山田耕筰のゴールデン・コンビによる『この道』は、そんな郷愁の気持ちを感じさせてくれる名曲です。

詩人の北原白秋が『この道』を着想したのは、1925年(大正14年)夏の北海道旅行でした。鉄道省主催の樺太(現在はロシア領・サハリン州)観光団に加わり、帰路の途中でグループを離れ、総計1か月ほどの大規模な北海道紀行を楽しんだ白秋は、札幌の地で見た「時計台」を詩に織り込みました。詩は雑誌「赤い鳥」1926年(大正15年)8月号に発表され、山田耕筰は1927年(昭和2年)2月24日、転居して間もない神奈川県茅ヶ崎市の自宅で曲を書きました。

以前に住んだことのある場所や、旅行などで訪れたことがある場所に、親しんでいた“あの風景”が失われてしまったら、その時に感じる寂しさはいかばかりでしょう。現在の日本は、あまりにも多くのものを一瞬のうちに失ってしまいました。取り戻せないものも多いけど、残ったものもきっとあるはず。直接の被害を受けなかった地域に住む人たちも、復興支援のためにできる協力をしてゆけたらと切に願っています。

きみの朝

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きみの朝』 (作詞・岡本おさみ/作曲・岸田智史) <歌詞URL

1979年放映のTBSテレビドラマ「愛と喝采と」の主題歌であり、歌番組「ザ・ベストテン」でも上位にランクインした岸田智史さんの『きみの朝』。私にとっては、小学校4年生の時に聴いた「最高の名曲」でした。
このドラマで俳優デビューした岸田さんは、後に芸名を「岸田敏志」と改め、1990年代以後は俳優活動のほうに重点を置いてきました。俳優としての出演作品は「渡る世間は鬼ばかり」や「ミス・サイゴン」などがよく知られています。

きみの朝』は柔らかなピアノのイントロで始まり、聴き手をさわやかな朝の雰囲気へ誘います。3連からなる歌詞中では「~魂と」の対比が行われ、対照的な人間たちを配置することで、絶え間なく移ろいゆく流動的な人間の営みを考えさせられます。
毎日気が滅入るようなニュースばかり続く今日この頃ですが、せめて朝の目覚めにさわやかな音楽を聴いて「躯じゅう輝きながら、朝に旅立つ」(3番より)のはいかがでしょうか。

だんご3兄弟

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だんご3兄弟』 (歌:茂森あゆみ速水けんたろう
(作詞:佐藤雅彦・内野真澄/作曲:内野真澄・堀江由朗) <歌詞URL

NHKテレビの子供向け番組「おかあさんといっしょ」で歌われ、1999年の春に日本全国で一大ブームを沸き起こした『だんご3兄弟』。賑やかだったあの春から、早くも12年の歳月が流れました。
「おかあさんといっしょ」の番組をリードする「うたのおにいさん」と「うたのおねえさん」。速水けんたろうさんと茂森あゆみさんは、1993年4月からコンビを組み始め、2人とも1999年の春を最後に、6年間一緒に務めた番組から引退する予定でした。2人が最後に取り組んだ仕事が、番組始まって以来の「国民的ヒット曲」になり、NHKも予想外の大反響に驚いたようです。1999年4月から「うたのおにいさん」と「うたのおねえさん」が交代しますが、子供向け番組で6年間コンビを組み続けた速水けんたろうさんと茂森あゆみさんは『だんご3兄弟』でNHK紅白歌合戦出場を成し遂げました。

舞曲の「タンゴ」と食べ物の「だんご」を引っ掛けた ♪だんご だんご…♪ の歌詞。イントロで使われる楽器はアコーディオンでしょうか。タンゴの軽快なリズムに乗って、擬人化した“3兄弟”の様子が歌われていきます。「しょうゆぬられて」のだんごは「みたらし団子」のこと。ヒット当時はお菓子屋さんの間でも、串刺しの団子の数をめぐって議論が行われていたようです。男の子3人「長男・次男・三男」の“兄弟愛”を盛り込んだ歌詞も、聴き手に新鮮なインパクトを与えるものでした。

♪春になったら 花見 花見/秋になったら 月見 月見…♪
1990年代最後の春に「花見だんご」の季節を席巻し、どこのお菓子屋さんでも“耳にたこができるほど”流れていた『だんご3兄弟』の歌ですが、時流の変化は実に早いもの。秋の「月見だんご」の季節には、半年前のような“だんご”の賑わいは消えて、巷の人気曲はモーニング娘。の『LOVEマシーン』でした。

この広い野原いっぱい

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この広い野原いっぱい』 (作詞・小薗江圭子/作曲・森山良子) <歌詞URL:12

1948年1月18日生まれのシンガー・ソングライター森山良子さんが、19歳を迎えたばかりの時に発表したデビュー曲『この広い野原いっぱい』。それ以来、彼女は40年以上にわたってシンガー・ソングライターの王道を歩み続けてきました。
この広い野原いっぱい』が「みんなのうた」の番組で取り上げられた時期は、森山良子さんのデビューシングル盤発売日(1967年1月25日)から7年も後、1974年4-5月が初放送でした。
作詞者の小薗江圭子(おそのえ・けいこ)さんは、画家としての活動も多く、とりわけ「オバケちゃん」の絵本シリーズの挿絵で高い人気を持っています。

♪このひろーい のはらいっぱい さくーはなーをー…♪
私はブログ画面で楽譜を書けないのですが、この歌は音楽用語で「シンコペーション」(切分音)を巧みに使った好例になっています。学校の音楽の授業でも「シンコペーションの練習」という感じで習いました。
まだ10代の森山良子さんが書いた絶妙なシンコペーションと、小薗江圭子さんが描く絵画のような世界が見事に溶け合った、子供心にも忘れ難い名曲。4連の歌詞を通して「ひとつ残らず あなたにあげる…」と呼びかけているのは、いったいどんな存在なのでしょうか。

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今では息子の森山直太朗さんが、偉大な母親にさえ比肩できるほどの立派なシンガー・ソングライターに成長しました。直太朗さんの作品も、今や卒業式の人気曲に定着した『さくら』から最新作の風変わりな歌『うんこ』に至るまで、広範囲の領域に及んでいます。
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Author:SC
とにかく音楽が大好き。クラシック・ポピュラーのCDで自室を埋め尽くしています。

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