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おもいでのアルバム

おもいでのアルバム』 (作詞・増子とし/作曲・本多鉄麿) <歌詞URL:12

1.いつのことだか 思いだしてごらん/あんなこと こんなこと あったでしょう
うれしかったこと おもしろかったこと/いつになっても わすれない (以下、7番まで続く)

今年も「卒業式」「卒園式」の季節が終わりました。それまで慣れ親しんだ場所から巣立ち、子供たちは全く新しい環境での生活を、もうすぐ始めようとしています。
古い卒業式の歌『蛍の光』『仰げば尊し』しか知らなかった世代から見ると、現在の卒業式は「歌う曲の幅が大きく広がった」と感じられます。保育園・幼稚園の「卒園式」であれば、子供たちはもっと平易な曲を歌ってから「義務教育」6年間の小学校生活へと巣立つでしょう。
私は家庭の事情もあり、保育園に行かなかったので「卒園式」を知りませんが、交流サイトでいろいろな背景の方のお話を楽しんでいます。卒園式の定番曲のひとつとして、幅広く親しまれてきた『おもいでのアルバム』の歌も、交流サイトを経由して知ったばかりです。

おもいでのアルバム』がテレビの電波に乗ったのは、1980年代初めだったそうです。最初はテレビ朝日の幼児番組「とびだせ!パンポロリン」で、放映終了直前の1980年2月にかおりくみこさんが歌いました。それからNHK「みんなのうた」が2年連続で『おもいでのアルバム』を紹介し、1981年2月-3月期は男声合唱団ダーク・ダックス、1982年2月-3月期は芹洋子さんの歌唱で放映されました。(みんなのうた:12
そうだとすれば、テレビで広まった時期は、私が小学校生活を終えた時とほぼ同じ。当時最大の人気音楽番組「ザ・ベストテン」で聴きまくった、華麗なアイドル歌謡曲の大半に、何かしら“空虚さ”を感じ始めていた頃、この曲をリアルタイムでキャッチし損なった、何とも情けない私がいたわけです。

Memories_Album_1  Memories_Album_2  Memories_Album_1

おもいでのアルバム』の成立は非常に古く、1957年に保育園・幼稚園の現場で、2人の園長先生の手によって作られました。
<作者プロフィール>
作詞者:増子とし(ますこ・とし)…1908年-1997年7月2日。東京都墨田区立・江東橋保育園の園長を務めた女性教育者で、敬虔なクリスチャンであった。
作曲者:本多鉄麿(ほんだ・てつまろ)…1905年1月17日-1966年5月24日。東京都調布市で神代幼稚園(じんだい~)園長を務め、常楽院(天台宗)住職であった。作曲を弘田龍太郎に師事する。

2人の園長先生は、保育関係の講習会で出会いました。「幼児教育の理想像」を語り合い、お互いに多くの共通点を見い出した2人の共同作業により『おもいでのアルバム』の歌が生まれました。
7番まである歌詞は、5番・6番と「冬」の詩が2つあります。 ♪冬のことです 思いだしてごらん…♪
5番の歌詞は「メリークリスマス」が出てきます。キリスト教徒である作詞者と、仏教の住職である作曲者の話し合いにより、クリスマスを祝わない宗教の幼稚園でも歌えるように、2通りの歌詞が作られました。
完成した歌は、1959年刊行「増子とし全集」(フレーベル館)に掲載され、彼女が1961年に著した保育教材「幼児のためのリズミカルプレー」にも取り上げられて、保育園教育者たちの間で評判になりました。

前述のように『おもいでのアルバム』がテレビで紹介されたのは、1980年代の最初期でした。作曲者の本多鉄麿氏は、歌の完成から10年もしないうちに、1966年5月24日に61歳で亡くなりました。
作詞者の増子としさんも、1963年に脳髄膜炎で倒れ、自宅で長い闘病生活を送るうちに、元気だった頃の記憶が薄れていったそうです。『おもいでのアルバム』がテレビ番組で有名になった時、増子家ではこんな夫婦の会話まであったとか。
芹洋子さんの歌唱を聴いて)「これは良い曲ね…」→(ご主人)「これはお前が作った曲じゃないか!」
本多鉄麿氏の没後30年を偲び、1996年に『おもいでのアルバム』の歌碑が、住職を務めた「常楽院」の境内に建てられました。同じ年に、園長を務めた「神代幼稚園」は、園児数の減少で閉園となりました。
(主な参照資料:多摩ニュータウンタイムズ東雲通信|池田小百合/なっとく童謡・唱歌|その他)

♪桃のお花も きれいに咲いて/もうすぐみんなは 一年生…♪
どうして、こんなに遅くなってから『おもいでのアルバム』を調べようと思い立ったのか。献身的な教育者による「現場生まれの歌」として、あの『旅立ちの日に』との共通点を感じ取ったからです。(過去記事
旅立ちの日に』の記事を出した時は、私はほとんど毎日ブログ更新にかかりきりで、元気いっぱいに過ごしていたけれど、あの時のペースに戻すのは難しい…。

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白い花の咲く頃

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白い花の咲く頃』 (歌・岡本敦郎/作詞・寺尾智沙/作曲・田村しげる) <歌詞URL:12

♪さよならと 云ったら…♪ 年度末の月・3月は、どこでも「さよなら」が多いものです。
大変残念なことに、1950年(昭和25年)に『白い花の咲く頃』を大ヒットさせた歌手、岡本敦郎(おかもと・あつお)氏にも「さよならと云う」時が訪れました。太平洋戦争の終戦直後から活動を開始し、さわやかな叙情歌を数多く世に送り出した不世出の名歌手は、脳梗塞により88年と3日の生涯を閉じました(1924年12月25日-2012年12月28日)。

白い花の咲く頃』は哀切な「別れの歌」として、えもいわれぬ美しい情景描写が光る傑作です。歌詞中に登場するのは、おそらく恋人どうしだった若い男女でしょう。ふるさとを離れて旅立つ男性が「さよなら」と云うと、その後ろ姿を「黙ってうつむいてたお下げ髪」の女性が見送ります。あの時見えた「白い花」「白い雲」「白い月」を思い出し、悲しかった別れの日を思い浮かべる…。

岡本敦郎氏は1924年(大正13年)の暮れ“クリスマスの日”に、北海道小樽市で生まれ、武蔵野音楽大学の声楽科を卒業します。終戦直後の1946年(昭和21年)2月に「コロムビア専属新人歌手募集」の新聞広告が掲載され、この一般公募に合格した時から、岡本氏の歌手人生が始まりました。
デビュー曲は1946年5月、先輩歌手・安西愛子さんとともに吹き込んだ『朝はどこから』。1950年に大ヒットした『白い花の咲く頃』をはじめ『あこがれの郵便馬車』『高原列車は行く』など、岡本敦郎氏はNHKラジオの音楽番組「ラジオ歌謡」から多数の名作を送り出しました。「ミスターラジオ歌謡」と呼ばれるようになった彼は、黎明期のNHK紅白歌合戦にも「7度」の出場記録を残しています。
高齢になって脳梗塞を発病した後も、岡本敦郎氏は音楽への情熱を失わず、最晩年までテレビやラジオなどで歌い続けました。83歳を迎えた直後、2008年1月21日にNHK「ラジオ深夜便」の番組「列島インタビュー~八十三歳、のびやかに歌う 岡本敦郎」に出演し、近況や若き日の出来事など、貴重なお話をたくさん聞かせてくださったとのこと。(記事URL:ラジオ深夜便エムズの片割れ

白い花の咲く頃』の作詞家・作曲家は、夫婦コンビで数多くの曲を書きました。
作詞者:寺尾智沙(てらお・ちさ)…1917年(大正6年)3月6日-1967年(昭和42年)11月14日。
作曲者:田村しげる…1908年(明治41年)12月20日-1980年(昭和55年)10月14日。
作曲家と同姓同名の著名人に、イラストレーターのたむらしげる氏(1949年生)がいるので、検索をかけると大半でこの作家が出てきます。作曲家を調べるには「田村しげる+作曲家」に絞りますが、現在のオンライン資料だと、夫婦ともあまり多くないようです。

何とも恥ずかしいことに、私の怠慢が積み重なって「追悼・岡本敦郎」の時を逃した、2か月遅れのブログ記事公開になりました。自分で変な言い訳をして「別れの歌だから、3月でもいいや」となったものです。
この人には、本当に素晴らしい歌が多いなあ…デビュー曲『朝はどこから』なども、いつか本ブログで取り上げてみたいな、と考えているところです。
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とにかく音楽が大好き。クラシック・ポピュラーのCDで自室を埋め尽くしています。

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