スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

愛すべき好青年へ

1990年4月8日、午前7時11分。謎の難病患者として世界的に知られた1人の青年が、18歳の若さで長い闘いに力尽きました。その人の名前はライアン・ホワイト(Ryan White)さんといい、初期のエイズ患者として有名でした。彼の訃報記事は全世界で大きな反響を呼び、葬儀の参列者は1500人を超えました。インディアナ州シセロの共同墓地にある彼のには、今なお多数の墓参者が訪れるそうです。
今年没後20年を迎えるこの青年は、生まれた時から「血友病」という不治の病を患い、その治療のための血液製剤からエイズに感染したため、通っていた学校から追放されるなど、生涯を通じて多数の偏見や差別と戦い続けました。その過程の中で、彼は多数の有名人と知り合い、とりわけ音楽家のエルトン・ジョンマイケル・ジャクソンと親しく交わりました。2009年6月25日にマイケルが「50歳」の若さで死去したことから、彼のヒット曲『Gone Too Soon』(あまりにも早く去った)が注目を集め、その献呈を受けたライアンのことも、さらに広く知られるようになりました。
ライアンについては「エイズの少年としてエルトンマイケルから援助を受けた」の一面しか知らない方も多いようです。この記事では、ライアンが書き残した自伝「エイズと闘った少年の記録」(日本語翻訳書・加藤耕一訳、ポプラ社刊/原書名:“Ryan White: My Own Story”)から、彼が生涯中に示した素晴らしい生活態度と人柄に触れてみたいと思います。拙い末筆であっても、彼が「愛すべき好青年」であったことが少しでも伝わればと願っています。

ライアン・ホワイトさんは1971年12月6日にインディアナ州ココモの地で生まれ、生後わずか3日で血友病と診断されました。家族構成は父親ウェインと母親ジニー、妹アンドレアの4人家族でしたが、ライアンが7歳の時に両親が離婚します。間もなくジニーは勤務先の同僚スティーブ・フォードと再婚しますが、この結婚生活も4年で終わりを迎えました。ライアンの話によれば、実父のウェインは家族との触れ合いがうまくなかったようですが、離婚して家を出た後も養育費をきちんと支払ってくれたので、莫大な額にのぼったライアンの医療費もウェインの保険から支払われたそうです。継父のスティーブは、その後も親身になって一家の面倒を見てくれたそうです。車が大好きな人だったので、ライアンをよくモーターショーに連れて行きました。アメリカでは16歳で運転免許を取得できるので、スティーブライアンに車の運転を教え、車好きの友人をたくさん紹介してくれたそうです。ひとり親(シングルマザー)のジニーに育てられたとはいえ、ライアンは親しかった継父スティーブだけでなく、早く疎遠になった実父ウェインにも感謝の心を忘れない人でした。

ライアンが患っていた「血友病」とは、血液を固めるための「凝固因子」が生まれつき不足しているため、出血が止まりにくい疾患です。そのため、足りない凝固因子を補うための血液製剤を定期的に注射する必要があります。しかし、当時の血液製剤にはエイズウイルス(HIV)を殺すための加熱処理が施されていませんでした。日本でも非加熱の汚染血液製剤に起因する「薬害エイズ」が大きな社会問題となりましたが、ライアンは最初期の薬害エイズ患者の1人でした。13歳の誕生日を迎えて間もない頃、1984年12月に重症の肺炎を発病した彼は、インディアナポリスにある「ライリー小児病院」(Riley Hospital for Children)に入院し、そこでエイズの診断を受けました。この時から、彼の5年間に及ぶ長い闘いの道が始まりました。
残された自伝を読むと、ライアンのずばぬけた観察力の鋭さと楽観的な物の見方に驚かされます。けがをしても血友病のため大量出血が止まらず、何度も入院した幼い頃でさえ、癌などを患う子供たちを見て「血友病は最悪の病気ではない」と自分で理解できたほどです。エイズを発病した時も「もうひとつ余分な病気を背負い込んだ」ぐらいにしか考えなかったそうです。彼は汚染血液製剤からエイズに感染した同年代の血友病患者たちとも知り合い、彼らの大半が発病後間もなく死んでゆく様子を見聞きしました。そのうちのひとりは、いつもゆっくりとしか動こうとせず、チューブからの注射が大好きで、発病後1年足らずで死んだそうです。ライアンは決してそうした無気力な態度を取らず、最後まで「自分は必ず生きられる」と信じ続けました。そして、他の人たちと一緒に「普通の生活を送りたい」という願いを貫き通したのです。

ライアンエイズ感染が地元の新聞「ココモ・トリビューン」で報じられると、すぐにホワイト一家への激しい嫌がらせが始まり、彼は通っていた「ウエスタン中学校」から追放されました。当時はまだ不可解な謎の病気であったエイズは、最初期の患者に同性愛者が多かったことから“ホモの病気”と呼ばれたため、ライアンに関する虚偽の噂や悪質なジョークが瞬く間に広まりました。周囲の嫌がらせが激化の一途をたどる中、彼はエイズ患者の子供としての基本的権利を求めて、法廷で訴訟を起こすことを決意します。直ちにテレビ局の取材攻勢も始まり、ライアンは「エイズ患者の人権訴訟に立ち上がった最初の子供」として、全米中で有名になりました。長い紆余曲折を経て裁判に勝訴し、学校に復学する権利を勝ち取りましたが、その後もココモの住民や学校の生徒たちの嫌がらせはエスカレートし、ついには自宅に銃弾を撃ち込まれる事件まで起きました。ライアンの窮状の話を聞いて、多くの有名人たちが彼のために支援の申し出を始めます。その中でも、歌手のエルトン・ジョンが最も親しい友人になりました。それでも、ライアンは「学校に友達が誰もいない」ことで深い孤独感を味わいました。最終的に、ホワイト一家はココモを離れて、同じインディアナ州にあるシセロの町へ移転せざるを得なくなりました。
シセロに移ったライアンは、1987年9月から「ハミルトン・ハイツ高校」に転校することになりました。新しい学校への入学に先立ち、ライアンにはいろいろな心配事がありました。学校の人たちは「ライアンには有名人の知り合いがたくさんいるから、他の友達はいらないだろう」と考えるのではないか。自分がテレビ出演などで有名だから、それで近づこうとする人もいるのではないか。その不安を軽減してくれた人が、高校の生徒会長ジル・スチュワートでした。ジルは何度もホワイト家を訪れ、ハミルトン・ハイツがすでに全校規模のエイズ教育を始めたことを話したり、友達や学校環境などを紹介してくれました。ジルの惜しみない尽力により、「みんなと普通につきあいたい」と願ってきたライアンの夢がついに実現したのです。1988年3月、ライアンジルレーガン大統領の招待を受け、首都ワシントンの大統領委員会でエイズに関するスピーチを行いました。ライアンは患者への偏見と正しい教育の重要性について、ジルは学校でのエイズ教育について話し、社会の人々の理解を前進させる面で絶大な貢献をしました。
シセロで16歳の誕生日を迎えたライアンは、継父スティーブの手ほどきで運転免許を取得し、友達とのドライブやアルバイトを楽しみました。それでも、ココモほどではなかったものの、シセロの地でも偏見による不愉快な経験はありました。ライアンとつきあっているというだけの理由で、アルバイトをやめさせられた友達もいたそうです。大統領委員会でスピーチをした後は、各界の有名人たちとの交流もさらに増えましたが、それは彼にとって全く重要ではありませんでした。彼は口癖のように「有名になるとは、時にはエイズ以上の孤独を意味することもある」と語ったものです。
しかし、この勇敢な青年にも命の灯が消える時が刻々と迫ってきました。1989年の秋に入ると、ライアンの病状は悪化の一途をたどり、学校にも通えなくなってしまいます。1990年3月末、いつもの入院先であるインディアナポリスのライリー病院に戻った彼は、主治医に「もう闘いには疲れた」ともらしたそうです。彼の最後の病床には、母親ジニーと妹アンドレア、祖父母と継父スティーブの家族全員に加えて、何人もの学校の友達とエルトン・ジョンが付き添いました。ライアンは意識を失った昏睡状態で6日間持ちこたえましたが、ついに1990年4月8日、午前7時11分に18歳4か月で力尽きました。マイケル・ジャクソンは仕事先から何度もライアンの病室に電話をかけましたが、親友の臨終には間に合いませんでした。ベッドのわきに置かれた音楽プレーヤーからは、本人の希望でマイケルの曲『Man In The Mirror』が流れていました。

ライアンの真摯な生活態度や、分け隔てのない誠実な人柄に触れて、無数の人々が深い感銘を受けました。1989年1月に公開されたテレビ映画「ライアン・ホワイト・ストーリー」(The Ryan White Story)で、主役のライアンに扮した俳優のルーカス・ハース(1976年生まれ、主演当時12歳)は、ライアンと一緒に仕事をしながら「君は学校が大好きだね、自分はあそこまではできないよ」と賞賛したそうです。この映画ではライアン本人もいろいろな仕事を手伝い、チューブが大好きだった少年の役で出演もこなしました。
ライアンが亡くなった後、彼の死を悼んで作られた芸術作品も多数あります。マイケル・ジャクソンは小さな親友のために「ライアン・ホワイト」という詩を書きました。この美しい詩は、ライアンの自伝の英語原書だけでなく(日本語翻訳書では割愛)、マイケルの著書『Dancing the Dream』にも収載されました(74-75ページ)。さらに、この記事の冒頭で紹介した『Gone Too Soon』の歌も残されています。
マイケルが亡くなった直後の2009年7月、母親ジニーはテレビのインタビューに応じ、息子ライアンマイケルとの間に築かれた友情について語りました。

ライアンエイズの診断を受けて以来、亡くなるまで入退院を繰り返したインディアナポリスの「ライリー小児病院」は、難病の子供たちを対象にした専門病院として有名で、全米のみならず世界各国から患者さんを受け入れています。病院内の小児感染症専門治療施設には「ライアン・ホワイト・センター」(Ryan White Center for Pediatric Infectious Disease)の名前が冠されており、エイズを含む5つの部門に分かれて、小児感染症の特殊専門治療を行っているそうです。ライアンが残した医学上の遺産は、彼の入院先の病院にも引き継がれてきました。
ライアン公式サイトにも、今なお多数のアクセスがありますが、気になる点が“Ryan's friends”(ライアンの友人たち)の欄がずっと“This section is under construction.”(この部分は構築中です)のままになっていることです。最も有名な友人であったスーパースターのマイケル・ジャクソンが亡くなったことも理由のひとつとして考えられますが、それ以上に気がかりなのは、ライアンの人生に不可欠だった学校の友達のことでしょう。彼らはみな成長して、それぞれの家庭に落ち着いたはず。でも、もしこの公式サイトで「友人」の中に列挙され、クリックひとつでプロフィールが表示される状態になったら、必ずや彼らのプライバシーを侵害しようとする者が現れ、普通の生活を送れなくなるかもしれない。それこそ、生前のライアンが最も望まなかったことですから。日本語翻訳書では割愛されているものの、英語原書のエピローグには、彼らの進んだ道も簡潔にまとめられています。あれから20年を迎える今も、ライアンは彼らの心の中で強く生き続けていることでしょう。

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

SC

Author:SC
とにかく音楽が大好き。クラシック・ポピュラーのCDで自室を埋め尽くしています。

最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
最新コメント
最新トラックバック
リンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。