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1905年10月1日・街頭にて

Janacek_Piano_Sonata_1  Janacek_Piano_Sonata_2

1905年10月1日・街頭にて』とは-チェコの作曲家、レオシュ・ヤナーチェク(1854年7月3日-1928年8月12日)が書いた唯一のピアノ・ソナタの表題です。
これはチェコの東部地域「モラビア」の中心都市・ブルノで起きた出来事に基づくもので、出版楽譜にはヤナーチェクの次のような言葉が記されています。

ブルノの芸術家の家の/白い大理石の階段を
血で汚して、一介の労働者フランチシェク・パヴリークが倒れた。
大学設立の請願にやってきただけなのに/残忍な殺戮者たちの手にかかって/殺されてしまった。
レオシュ・ヤナーチェク
(ブルノに大学を求めるデモの最中に、銃殺された一労働者の思い出に捧ぐ。)

[翻訳文引用:CD解説書・ロンドン POCL-1436「ヤナーチェク:ピアノ曲集」ポール・クロスリー(ピアノ)]

このユニークなピアノ・ソナタに関しては、現在アクセス可能なオンライン資料の中から、良くまとめられたものとして「日本ヤナーチェク友の会」と「ピティナ・ピアノ曲事典」にリンクしておきます。
当時のチェコは「オーストリア=ハンガリー帝国」の統治下にあり、モラビアの中心都市・ブルノはドイツ系住民に支配されていました。当地のチェコ系住民は「チェコ人のための大学をブルノに設立したい」と強く要望していましたが、支配層のドイツ系住民が強硬に反対したため、ついにチェコ人とドイツ人の武力抗争へ発展します。1905年10月1日、ブルノの街頭で起きた武力抗争の結果、20歳のチェコ人労働者フランチシェク・パヴリーク(František Pavlík)が重傷を負い、運ばれた病院で亡くなりました。ヤナーチェクはこの流血事件に深く心を動かされ、3楽章からなるピアノ・ソナタを書きました。

ピアノ・ソナタは最初、全3楽章構成で作られましたが、ヤナーチェクは初演の直前に第3楽章の楽譜を焼き捨てました。残った2楽章には、次のような表題がつけられています。
[第1楽章:「予感」/第2楽章:「」(最初は「悲歌」として書かれた)]
初演は1906年1月27日にブルノで行われましたが、ヤナーチェクはすぐ後に自筆楽譜をプラハのモルダウ川に投げ捨ててしまいます。幸いにも、初演を担当した「ブルノの女流ピアニスト」が作曲者に内緒で、第1楽章・第2楽章の楽譜を書き写していました。初演から18年後の1924年、70歳になったヤナーチェクは書写楽譜の存在を喜び、ピアノ・ソナタ『1905年10月1日・街頭にて』として出版しました。

日本語の文献を読んでいたら「日本ヤナーチェク友の会」ほどの専門資料でさえも、ソナタの初演時に楽譜を筆写した「ブルノの女流ピアニスト」の名前が出ていないのが気になりました。その女性の名前は何だろうか。英語版のウィキペディア記事で《Ludmila Tučková》(ルドミラ・トゥチコワ)という名前を見つけ、そちらで検索を進めたところ「ブルノ百科事典」(チェコ語)の人名索引が出てきました。
Ludmila Tučková》(ルドミラ・トゥチコワ)はピアニスト・教育者。「ヤナーチェクのピアノ・ソナタ初演者」とまでは述べられていないものの、詳細な音楽経歴と生没年月日(1882年5月21日-1960年2月25日)が判明しています。若き日には音楽院でヤナーチェクに師事し、彼の助手を務めたこともあったようです。

それでは、レオシュ・ヤナーチェク作曲のピアノ・ソナタ『1905年10月1日・街頭にて』第1楽章「予感」を、地元チェコの名ピアニストであったルドルフ・フィルクシュニー氏(1912年2月11日-1994年7月19日)の演奏でお聴きくださいませ。(第2楽章「続きもあります。)

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