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春の稲妻とともに去りぬ

1827年3月26日-「楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが、波瀾と輝きに彩られた56年3か月の生涯を終えた日。巨匠の死因は肝硬変でした。
日本史でいえば、まだ江戸時代後期の頃。ベートーヴェンの生没年[1770年-1827年]は、日本の元号に置き換えると「明和7年-文政10年」になります。

前人未到の金字塔「交響曲第9番 ニ短調 作品125」(第9交響曲)の初演を、1824年5月7日にウィーンで行った後、晩年のベートーヴェンの創作活動は「弦楽四重奏曲」に向けられて行きます。容赦なく進行した聴覚障害により、作曲が不可能になる音楽ジャンルも出てきました。
22歳でウィーンに出てから、数知れぬほどの引っ越しを重ねてきたベートーヴェンは、1825年10月に最後の住居「黒スペイン館」3階の部屋に落ち着きました。この建物の近くに、ボン時代からの親友だったシュテファン・フォン・ブロイニングの一家が住んでいたのです。ベートーヴェン黒スペイン館の家に転居した時、シュテファンには12歳のひとり息子ゲルハルトがいて、ベートーヴェンゲルハルトを「ズボンのボタン」と呼んで可愛がるようになりました。

1826年8月、バーデン(バーデン・バイ・ウィーン)で静養していたベートーヴェンのもとに、衝撃的な知らせが届きました。彼が後見人を引き受けた甥のカールが、学業の問題などで悩んだ果てに、バーデン近郊の丘でピストル自殺を図ったのです。甥のカールといえば、作曲家の弟カールが1815年11月15日に死去した後、彼の実母のヨハンナと伯父のベートーヴェンが、後見資格をめぐって長い法廷闘争をした問題で有名です。
一命を取り留めたカールは、ウィーンの市民病院で1か月半の入院生活を送ります。そこへ末の弟ヨハンが訪れて、自分の屋敷があるグナイクセンドルフで、一緒に静養することを勧めました。こうして1826年9月28日、作曲家は甥とともに、ウィーンからグナイクセンドルフへ向かいました。
秋のグナイクセンドルフは、風光明媚な自然風景に囲まれていたので、健康状態の衰えが進行してきたベートーヴェンを大いに喜ばせました。この屋敷での暮らしは、ヨハンの妻テレーゼとの関係が問題になりました。ヨハンテレーゼが1812年に結婚した時、ベートーヴェンが猛反対したからです(テレーゼに私生児の連れ子がいたため)。2人の接触を減らすために、弟は兄の身辺の世話を、自分の葡萄農園で働いていた青年に任せるなど、できる限りの気配りをしました。
さまざまな角度からの文献を見ると、人間としてのベートーヴェンは、一家の長男としての意識を強く持ちすぎたためか、2人の弟たちの私生活・結婚生活にまで、過度に干渉する一面もあったようです。

瞬く間に秋の日は過ぎ去って、厳しい冬が始まり、ベートーヴェンがグナイクセンドルフからウィーンへ戻る時が来ました。駅馬車を見つける余裕もなく「幌のない牛乳運搬馬車」に乗り、途中で1泊した安宿の部屋には暖房設備がなく、ベートーヴェンは冬用の服を持参していなかったために、この道中で彼の病状は致命的に悪化します。こうしてベートーヴェンは4か月の闘病生活に入り、もはや病床から起き上がれなくなりました。

Favorite_Wine_Model  Gone_With_Spring_Thunder

病床についたベートーヴェンのために、彼と親しい医師たちがさまざまな治療法を試み、4度の腹水除去手術に加えて、他の対症療法も行われましたが、さっぱり効果はありませんでした。いくらか気分の良い日には、ベートーヴェンは楽譜出版社や音楽家の友人たちなどに手紙を書いたり、ロンドンの楽器製作者から贈られた「ヘンデル全集」の楽譜を読んだりしました。隣家に住む親友シュテファン・フォン・ブロイニングの一家や、自称“無給秘書”のアントン・シンドラーなどが、巨匠の身辺の世話を行っていました。シュテファンの息子で、ベートーヴェンからは「ズボンのボタン」と呼ばれたゲルハルトが、病床に食事などを運んだり、たくさんの雑用を手伝いました。従来の研究文献ではあまり触れられなかった点ですが、薬剤師になった末の弟ヨハンも、長兄の看病で中心的な役割を果たしたようです。自殺未遂から回復した甥のカールは、本人の希望で軍隊に入ることが決まり、1827年1月2日にボヘミアのイーグラウへ出発しました。
ベートーヴェンの「黒スペイン館」の家には、連日多くの見舞客が訪れました。作曲家の同僚たちもたくさん見舞にやってきて、彼に憧れ続けた後輩のフランツ・シューベルト、若き日のベートーヴェンのライバルであったヨハン・ネポムク・フンメルや、シューベルトと親しい作曲家のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーなどが病床に足を運びました。

1827年3月に入り、死期を自覚したベートーヴェンは、最後の身辺整理を行いました。3月23日には遺言書に署名を行い「甥カールを唯一の相続人とする」と書き記しました。
ベートーヴェンは自分の最近作の楽譜出版に携わっていた「ショット社」に、大好物の名産ワインを送ってほしいと頼んでいました。ワインが到着したのは、3月24日のことでした。その時「残念、残念、遅すぎたよ」とつぶやいたのが、ベートーヴェンの辞世の言葉になりました。
3月24日夜からベートーヴェンは昏睡状態に陥り、秘書役のシンドラーシュテファンゲルハルトのブロイニング父子、ヨハンテレーゼの弟夫婦がつきっきりで様子を見ていました。最後の日、3月26日の午後には見舞客として、作曲家のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーが訪問しました。
午後3時を過ぎて、シュテファンシンドラーヨハンは葬儀のための墓地を探しに出かけ、ゲルハルトは自宅へ帰ったので、ベートーヴェンの部屋に残ったのは、見舞客のヒュッテンブレンナーと弟の妻テレーゼの2人だけになりました。そこへ突然、激しい雷雨が降り出し、稲妻が鳴りました。ヒュッテンブレンナーの描写によれば「ベートーヴェンは目を開け、右手を上げて…」手を下ろして息絶えたとのことです。1827年3月26日、午後5時45分頃の最後でした。
シュテファンゲルハルトシンドラーヨハンが席を外した時に訪れた最後の瞬間。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの臨終に立ち会ったのは、見舞客のアンゼルム・ヒュッテンブレンナーと、生前は仲が悪かった義理の妹テレーゼの2人だけでした。

死の翌日、3月27日に遺体の解剖が行われ、聴覚器官が詳細に調べられました。3月29日に行われたベートーヴェンの葬儀には、2万人を超える人たちが集まり、学校も休みになりました。
シュテファンシンドラーを中心に、ベートーヴェンの遺品の整理が行われ、部屋の戸棚にあった秘密の引き出しの中から、甥カールに遺贈する7枚の銀行株券に加えて、有名な「不滅の恋人」宛ての3通の手紙が見つかりました。
大変残念なことに、シュテファンが心労の蓄積のためか、ベートーヴェンの死から2か月後の1827年6月4日に52歳で亡くなりました。まだ14歳のひとり息子ゲルハルトと、膨大な遺品整理作業を残して。後を引き継いだアントン・シンドラーは、1840年に最初の伝記を著述しましたが、筆談帳などの遺品を自らの手で破棄してしまったそうです。

楽聖ベートーヴェンの死から18年後、1845年に生誕地のボンで記念像が立てられ、除幕式の演説者はこのように述べました。「彼の墓前で泣く妻もなければ、息子も娘もない、だが世界が泣いた」と。

<本記事の参考文献>
1.平野昭著『ベートーヴェン』(音楽之友社「作曲家・人と作品」シリーズ、2012年7月刊)-最新の日本語研究文献。
2.大築邦雄著『ベートーヴェン』(音楽之友社「大音楽家・人と作品」シリーズ、1962年1月刊)-半世紀前の古書であるが、信頼性の高い名著として愛読。
3.武川寛海著『音楽史の休日』『続・音楽史の休日』(音楽之友社、1972年11月・1974年6月刊)-音楽家のエピソード集。著者はベートーヴェン研究家で、ゴダイゴタケカワユキヒデ氏の父親でもある。

ベートーヴェン:交響曲第7番 イ長調 作品92>-第4楽章 (指揮:カルロス・クライバー

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